わが家のツツジについてはここ2、3回触れてきた。
しかし、今日が最後だ。
満開を過ぎたからだ。
ツツジは散らない。
椿同様、花ごと落ちる。
庭の苔への落椿などはまだ風情があるが、ツツジは駄目だ。
落ちた途端に茶色く変色し始める。
落ちない前に変色するものもある。
だから散り際の美は期待できない。
樹齢数十年、改めて大木に育ったと思う。
ついでだからもう一本の赤い方も紹介しておこう。
これは玄関先、バス通りに面している。
樹齢は白と同じなのだが、それほど大きく感じられないのはそのロケーションにある。ようするに、道路に面しているせいで、毎年刈り込まねばならないのだ。
自由にのびのび、四方八方に枝を広げている白に比べてかわいそうな気もする。
それから、白に比べて赤は開花がやや遅い。
その代わり、遅れた分だけ長持ちする。
白のなかに最近赤がまじり、それが一枝を占めるに至ったことはすでに書いた。この赤い枝も、周りの白に対して開花に同様な時差がある。
不思議なことだ。
アングルが違う白の写真は、私が二階の部屋から見下ろすものだ。
見下ろすといっても、ほんの鼻の先まで伸びてきた。
大切な話というのは5月3日は憲法記念日だったということだ。
1947年5月3日、現行の日本国憲法が施行された。
私は小学校の3年生になっていた(この4月以前には国民学校2年生、昭和16年から始まった国民学校令はこの4月に廃棄されたばかりだった)。
街々のあちこちには焼けただれた戦禍の跡などが生々しく残っていて、傷痍軍人といわれる負傷兵たちが駅頭や街にあふれていた。
もちろんこの国はアメリカの占領下にあり、その主権すらなかった。そうした国家としての主権回復の第一歩が憲法の制定であり、新しい国体を形成することであった。
だから、ほぼすべての人がこの憲法を祝い、国のあちこちでは提灯行列なども行われた。まさにこれは戦後復興の大きなターニングポイントであり、新しい国家としての再生の第一歩であったのだ。
私たち小学生にも、憲法についての話があった。
そのひとつは、日本は先の戦争を反省し、もう絶対に戦争をしない国になったのだということであった。
そしてもうひとつは、国民は天皇の臣民ではなく、国民こそが国の主人公だということであった。さらにいうなら、すべてのひとは等しく幸せになる権利があるということだった。
そして、これからは、戦前のように上からの絶対的な命令によってではなく、国民が民主的手段によって自分たちの運命を決めてゆくのだということであった。
強調しなければならないのは、これらは当時の、ほとんどすべての国民のコンセンサスであったということだ。
もちろん、その背後にはあの辛くて苦しい戦争の日々の経験があり、そして今なお、場所によっては戦火の悲劇が継続しているという強烈な現状認識があった。
だから、新しい憲法は、それまでの暗黒に差し込む太陽の光のようなものであった。くどいようだが、それは再出発を志す国民の圧倒的多数の共通の思いであったのだ。
この憲法のもと、日本人の暮らしは良くなった。その一番の功績は、以後、戦火に怯えることのない70年を過ごせたということであり、近隣諸国へ武力を背景にした圧力をかけたりしなかったことだ。
今その憲法がいろいろな面で危ない。
その一つは、平和条項が名実ともに反故にされようとしていることだ。
それを反故にしようとする人たちはいう。
「あの頃とは情勢が違うんだよ」と。
「ちょっと待った」だ。
歴史を紐解くまでもないことだが、憲法制定当時の世界情勢、とりわけ東アジアの情勢はいまよりもはるかに不安定で流動的で危険だったのだ。
世界的には核を背景にした東西冷戦がすでに始まっていたし、中国では、国共内戦のまっただ中であった。さらには朝鮮半島では、まだ戦端は切られてはいなかったものの、一触即発で、事実、3年後には南北戦争が悲惨な状況を呈することとなる。
だから、今日と違ってのんびり出来た時代だからあれでよかったのだというのはまったくの嘘である。耳を澄ませば聞こえるほどのすぐ間近で戦火が交えられていたにもかかわらず、日本国民は武力でもってそれに備えることを放棄したのだ。
今日、たしかに領土問題などをめぐる小競り合いはある。しかし、相互に、武力をもって決着をつけるような問題ではないという共通認識はもっている。これを理由に相互に武力強化を図っているにしてもだ。
むしろ問題は、身近な脅威を理由にした、「世界どこでも参戦可能」状態への拡大移行の方である。専守防衛を放棄した、「必要ならばどこまでも」である。そしてその「必要ならば」はその折の為政者の恣意的な判断、その折の欲望のありかに委ねられる。
私たちは初心に帰るべきだと思う。それはこの憲法が、300万同胞の、そして2,000万の近隣諸国の屍を前にして選び取られた崇高な道だったということだ。この事実は、「靖国に眠る英霊」というカルト宗教的な言い分とはまったく違う次元ではるかに重い。
国民学校から小学校に変わった年の5月、私たちに説明されたこの憲法とともに私は生きてきた。だから、これをいたずらに黒い手でいじくろうとする向きには激しく抵抗せざるを得ないのだ。
しかし、今日が最後だ。
満開を過ぎたからだ。
ツツジは散らない。
椿同様、花ごと落ちる。
庭の苔への落椿などはまだ風情があるが、ツツジは駄目だ。
落ちた途端に茶色く変色し始める。
落ちない前に変色するものもある。
だから散り際の美は期待できない。
樹齢数十年、改めて大木に育ったと思う。
ついでだからもう一本の赤い方も紹介しておこう。
これは玄関先、バス通りに面している。
樹齢は白と同じなのだが、それほど大きく感じられないのはそのロケーションにある。ようするに、道路に面しているせいで、毎年刈り込まねばならないのだ。
自由にのびのび、四方八方に枝を広げている白に比べてかわいそうな気もする。
それから、白に比べて赤は開花がやや遅い。
その代わり、遅れた分だけ長持ちする。
白のなかに最近赤がまじり、それが一枝を占めるに至ったことはすでに書いた。この赤い枝も、周りの白に対して開花に同様な時差がある。
不思議なことだ。
アングルが違う白の写真は、私が二階の部屋から見下ろすものだ。
見下ろすといっても、ほんの鼻の先まで伸びてきた。
大切な話というのは5月3日は憲法記念日だったということだ。
1947年5月3日、現行の日本国憲法が施行された。
私は小学校の3年生になっていた(この4月以前には国民学校2年生、昭和16年から始まった国民学校令はこの4月に廃棄されたばかりだった)。
街々のあちこちには焼けただれた戦禍の跡などが生々しく残っていて、傷痍軍人といわれる負傷兵たちが駅頭や街にあふれていた。
もちろんこの国はアメリカの占領下にあり、その主権すらなかった。そうした国家としての主権回復の第一歩が憲法の制定であり、新しい国体を形成することであった。
だから、ほぼすべての人がこの憲法を祝い、国のあちこちでは提灯行列なども行われた。まさにこれは戦後復興の大きなターニングポイントであり、新しい国家としての再生の第一歩であったのだ。
私たち小学生にも、憲法についての話があった。
そのひとつは、日本は先の戦争を反省し、もう絶対に戦争をしない国になったのだということであった。
そしてもうひとつは、国民は天皇の臣民ではなく、国民こそが国の主人公だということであった。さらにいうなら、すべてのひとは等しく幸せになる権利があるということだった。
そして、これからは、戦前のように上からの絶対的な命令によってではなく、国民が民主的手段によって自分たちの運命を決めてゆくのだということであった。
強調しなければならないのは、これらは当時の、ほとんどすべての国民のコンセンサスであったということだ。
もちろん、その背後にはあの辛くて苦しい戦争の日々の経験があり、そして今なお、場所によっては戦火の悲劇が継続しているという強烈な現状認識があった。
だから、新しい憲法は、それまでの暗黒に差し込む太陽の光のようなものであった。くどいようだが、それは再出発を志す国民の圧倒的多数の共通の思いであったのだ。
この憲法のもと、日本人の暮らしは良くなった。その一番の功績は、以後、戦火に怯えることのない70年を過ごせたということであり、近隣諸国へ武力を背景にした圧力をかけたりしなかったことだ。
今その憲法がいろいろな面で危ない。
その一つは、平和条項が名実ともに反故にされようとしていることだ。
それを反故にしようとする人たちはいう。
「あの頃とは情勢が違うんだよ」と。
「ちょっと待った」だ。
歴史を紐解くまでもないことだが、憲法制定当時の世界情勢、とりわけ東アジアの情勢はいまよりもはるかに不安定で流動的で危険だったのだ。
世界的には核を背景にした東西冷戦がすでに始まっていたし、中国では、国共内戦のまっただ中であった。さらには朝鮮半島では、まだ戦端は切られてはいなかったものの、一触即発で、事実、3年後には南北戦争が悲惨な状況を呈することとなる。
だから、今日と違ってのんびり出来た時代だからあれでよかったのだというのはまったくの嘘である。耳を澄ませば聞こえるほどのすぐ間近で戦火が交えられていたにもかかわらず、日本国民は武力でもってそれに備えることを放棄したのだ。
今日、たしかに領土問題などをめぐる小競り合いはある。しかし、相互に、武力をもって決着をつけるような問題ではないという共通認識はもっている。これを理由に相互に武力強化を図っているにしてもだ。
むしろ問題は、身近な脅威を理由にした、「世界どこでも参戦可能」状態への拡大移行の方である。専守防衛を放棄した、「必要ならばどこまでも」である。そしてその「必要ならば」はその折の為政者の恣意的な判断、その折の欲望のありかに委ねられる。
私たちは初心に帰るべきだと思う。それはこの憲法が、300万同胞の、そして2,000万の近隣諸国の屍を前にして選び取られた崇高な道だったということだ。この事実は、「靖国に眠る英霊」というカルト宗教的な言い分とはまったく違う次元ではるかに重い。
国民学校から小学校に変わった年の5月、私たちに説明されたこの憲法とともに私は生きてきた。だから、これをいたずらに黒い手でいじくろうとする向きには激しく抵抗せざるを得ないのだ。