久々に歩数にして11,000歩以上を歩いた。18日のことである。
歩行時間、2時間と20分、移動距離6.3キロ、消費カロリー369.5Kcal、脂肪消費量52.7g だそうである。
どうしてこんなに歩いたかというと、三重県の若い友人に、名古屋は地下鉄伏見駅界隈の、マイ・フェイバリット・プレイスを案内して回ったからである。
まずは地下鉄を出て南へ歩き、白川公園に至る。
今でこそ都心の公園として整備されているが、私がはじめて名古屋へ出た頃は、アメリカ村といって占領米軍の家族住宅地であった。周囲は頑丈な金網で囲われ、広い敷地内にいかにもヤンキー好みの住宅が立ち並んでいた。
芝生の前庭をもったそれらの佇まいは、当時は映画でしか見たことはなかったから、私のような田舎者は、柵にしがみつくように見とれていた。
すると、時折、銃を持ったMP(憲兵)が巡回してきて威嚇するように睨みつけるのだった。
返還されたのは1958(昭和33)年のことだった。
その後、ここは整備が進み、今やけっこうな大木がそびえることとなり、歴史を偲ばせる。
ここにあるのは、市の科学博物館、同じく市立の美術館などであるが、中央には大きなグランドがあって、各種行事のほか、デモ行進の出発地点になったりしている。
一昨年の反原発デモの出発前の集会 背後は科学博物館
この公園には、もう一つの歴史がある。かつてはこの公園、ならびに周辺の道路の中央分離帯などは、名古屋でのホームレスの人たちの一大メッカで、あちこちに青テントがあったのだが、愛知万博を機に一斉に撤去された。
その後も、一部残っていたり、再建されたものがあったが、数年前、機動隊を動員しての行政代執行が行われて姿を消した。その人たちは今どうしているのだろう。
この辺りに住んでいた人たの痕跡(数年前)
月曜日で、あいにく公の施設は休館であったが、とりあえず場所や雰囲気の確認ということだったからこれでいいのだろう。ついでいわゆる100メートル道路を渡り、大須地区の名古屋アメ横丁の一部を紹介。
そこから、江戸時代の名古屋のメインストリート(名古屋城~熱田神宮)だった本町筋を少し歩き、もとの伏見地域に。
「しらかわホール」というコンサートホールを経て、電気文化会館へ。ここは電気に関する博物館だが、地下二階には室内楽向きの「ザ・コンサートホール」がある。ここも休館日。
チェロ・ソナタのコンサートの前に
さらに少し離れたキャノンのショールームに併設されたフォト・ギャラリーへ。ここは開いていて、写真を観る。今様の演出された結婚式や披露宴ではなく、いわゆる昔ながらのお家結婚式(それも全国各地)を集めたもので、とてもほのぼのとしたものが多かった。
その後、私がよくゆく映画館「伏見ミリオン座」を案内し、最後の締め、百年の伝統を誇る日本有数の居酒屋「大甚」で杯を酌み交わす。
ここは、10年ほど前に、キリンビールのレポーターをしていた折に取材に訪れ、パンフ風の写真入りのものを書いたのだが、それが今なお、一階にも二階にも貼られていた。ライター冥利に尽きるというものだ。
疲れたが心地よい時間であった。天候が心配されたが、なんとか曇りのままで持ちこたえてくれた。
同行した友人も満足してくれたようでよかった。
岐阜へ帰り着いたら、雨が降りだしていた。
歩行時間、2時間と20分、移動距離6.3キロ、消費カロリー369.5Kcal、脂肪消費量52.7g だそうである。
どうしてこんなに歩いたかというと、三重県の若い友人に、名古屋は地下鉄伏見駅界隈の、マイ・フェイバリット・プレイスを案内して回ったからである。
まずは地下鉄を出て南へ歩き、白川公園に至る。
今でこそ都心の公園として整備されているが、私がはじめて名古屋へ出た頃は、アメリカ村といって占領米軍の家族住宅地であった。周囲は頑丈な金網で囲われ、広い敷地内にいかにもヤンキー好みの住宅が立ち並んでいた。
芝生の前庭をもったそれらの佇まいは、当時は映画でしか見たことはなかったから、私のような田舎者は、柵にしがみつくように見とれていた。
すると、時折、銃を持ったMP(憲兵)が巡回してきて威嚇するように睨みつけるのだった。
返還されたのは1958(昭和33)年のことだった。
その後、ここは整備が進み、今やけっこうな大木がそびえることとなり、歴史を偲ばせる。
ここにあるのは、市の科学博物館、同じく市立の美術館などであるが、中央には大きなグランドがあって、各種行事のほか、デモ行進の出発地点になったりしている。
一昨年の反原発デモの出発前の集会 背後は科学博物館
この公園には、もう一つの歴史がある。かつてはこの公園、ならびに周辺の道路の中央分離帯などは、名古屋でのホームレスの人たちの一大メッカで、あちこちに青テントがあったのだが、愛知万博を機に一斉に撤去された。
その後も、一部残っていたり、再建されたものがあったが、数年前、機動隊を動員しての行政代執行が行われて姿を消した。その人たちは今どうしているのだろう。
この辺りに住んでいた人たの痕跡(数年前)
月曜日で、あいにく公の施設は休館であったが、とりあえず場所や雰囲気の確認ということだったからこれでいいのだろう。ついでいわゆる100メートル道路を渡り、大須地区の名古屋アメ横丁の一部を紹介。
そこから、江戸時代の名古屋のメインストリート(名古屋城~熱田神宮)だった本町筋を少し歩き、もとの伏見地域に。
「しらかわホール」というコンサートホールを経て、電気文化会館へ。ここは電気に関する博物館だが、地下二階には室内楽向きの「ザ・コンサートホール」がある。ここも休館日。
チェロ・ソナタのコンサートの前に
さらに少し離れたキャノンのショールームに併設されたフォト・ギャラリーへ。ここは開いていて、写真を観る。今様の演出された結婚式や披露宴ではなく、いわゆる昔ながらのお家結婚式(それも全国各地)を集めたもので、とてもほのぼのとしたものが多かった。
その後、私がよくゆく映画館「伏見ミリオン座」を案内し、最後の締め、百年の伝統を誇る日本有数の居酒屋「大甚」で杯を酌み交わす。
ここは、10年ほど前に、キリンビールのレポーターをしていた折に取材に訪れ、パンフ風の写真入りのものを書いたのだが、それが今なお、一階にも二階にも貼られていた。ライター冥利に尽きるというものだ。
疲れたが心地よい時間であった。天候が心配されたが、なんとか曇りのままで持ちこたえてくれた。
同行した友人も満足してくれたようでよかった。
岐阜へ帰り着いたら、雨が降りだしていた。
最近すっかり名古屋から遠ざかってしまいましたが、
名古屋で暮らしていたころ、名古屋で働いていたころは、
大須アメ横、白川公園、ミリオン座、大甚は徘徊ゾーンでした。
100メーター道路中央分離帯の青テントで暮らす人の中には、
どこで集めてきたのか店を広げる姿もありましたね。
界隈の歴史に精通した六文さんといっしょなら
若いご友人にも味わい深い体験になったと思います。
それから御園座。
遊びと芸ごとの好きな亡き父から
子供のころよく歌舞伎に連れていってもらいました。
長じて遊びどころの常として
マイノリティの集まる店が多いことも知りました。
伏見界隈には独特の味と歴史と陰影を感じます。
「マイノリティの集まる店」ってどこでしょうね。私が50年近く前に行ったところでは、「赤い月」というゲイ・バーがありました。「キャバレー白菊」の少し西だったような・・・。
一緒に行った若い友人、私の説明を手帖に書き留めていましたから、きっとこの街に馴染んでくれるのではないでしょうか。
ところで、こちらのブログにお邪魔しようとしてもなかなか繋がらないことが頻発しています。あくせく生活しているため、開くまでのんびり待つことができず、自然と疎遠になってしまいます。残念です。
繋がりにくいというのは残念ですね。
こちらに改善の余地があるようでしたら検討してみます。