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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の履歴書(五)空襲 これぞ「ヤケ糞」

2013-02-12 02:17:31 | 想い出を掘り起こす
 私の疎開生活は戦中にとどまらず戦後数年に及びました。なぜそうなったかを述べる前にもう少し敗戦までのことを語るべきでしょうね。

 1944(昭和19)年の末から翌年にかけて、私が疎開をしていた田舎でももよく空襲警報が発令され、防空壕に逃げ込む回数が増えるようになりました。南方諸島が米軍の手に落ちるにしたがい、そこを発進基地とする本土空襲が日増しに激しくなったのです。
 
 これは後から調べて知ったのですが、東京では44(昭和19)年11月14日以降、106回もの空襲を受けたそうです。特に翌45(昭20)年の3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模で、なかでもとりわけひどく、死者が10万人以上になった3月10日のものをさして東京大空襲というようです。

              
          B29 大きい黒いものは爆弾 ゴマ粒のようなものは焼夷弾

 私が直接見聞きしたものは、以下のものです。
 まずは名古屋大空襲ですが、軍需工場が多かったこの都市も数次にわたって空襲を受けました。いつのものかは覚えていませんが、私の疎開地から見て南東の方角の夜空が赤く染まっていて、大人たちが「名古屋がやられている」といっていたのを覚えています。
 もちろんそれのみではなく、現在、夏の夜にあちこちで花火大会があるように、毎晩どこかの都市の空が紅蓮の炎に彩られたのでした。

 そして7月9日の岐阜の空襲です。
 わずか20キロほどの距離とあって、東の空が真っ赤に焼けているのが手に取るように見えました。時々、何かが爆発するのでしょうか、どっと火の手が大きくなったりするのも見えました。
 「ああ、岐阜の家が燃えている」と母が呻くようにいっていたのを覚えています。

 そして、その20日後の7月29日のことです。今度は大垣の空襲でした。
 自分たちの真上をB29が不気味な重低音を響かせながら焼夷弾や爆弾を次々に投下しているのですから、名古屋や岐阜の時のようにそれらを見ていることなどとても出来ません。
 ひたすら、防空壕のなかで震えていました。

              
                空爆下の名古屋市街

 私の疎開地は大垣でも郊外の田園地帯でしたから、そこまでは大丈夫だと思っていたのですが、かつて紡績工場だったところが軍需工場になっていて、そこを守護する高射砲陣地もあったりし、それをまた米軍に完全にキャッチされていて、市街地同様に爆撃にさらされたのでした。
 そのうちに、とてつもない地響きがして、横穴式の防空壕の入り口がバラバラバラと降ってきた土砂のために埋まってしまいました。
 大人たちが手でかき分けるようにして外へ出ることができたのですが、防空壕のすぐ近くに直径10mほどの穴があいていて、大人たちは一トン爆弾が落ちたといっていました。

 防空壕が全壊して生き埋めにならずに住んだのは、家長であった母屋の祖父の知恵でした。
 私たちの入っていた防空壕は、竹やぶの下に掘られていて、竹の根が入り組んでいたため天井の崩落を防ぐことができたのでした。
 爆弾であいた穴は、しばらくはそのままになっていて、雨が降ると水が溜まって池のようになっていました。
 池といえば、命からがら防空壕を這い出して最初に見た光景は、すぐ近くの池の水面がめらめらと燃えているものでした。爆撃はもう終わっていたのですが、焼夷弾の油に火がついたのでしょう、まるで地獄の池を見ているようで妙に怖くて足がすくみました。

           
               炎上する当時の国宝名古屋城

 それよりももっと大変なことがありました。
 私と母が住んでいた掘っ立て小屋にやはり近くに落ちた焼夷弾の油が飛び散ったのか、その一角から火の手が上がっているのです。かなり離れた母屋の井戸から水を汲んでくる暇はありません。大人たちは近くの肥溜めの下肥を肥柄杓でぶっかけて火を消しました。
 お陰で庇と板張りの一部を焼いただけで助かったのですが、その後の臭いこと臭いこと。大人たちは、「これがほんとのヤケ糞だ」と冗談を言い合ったのでした。こんな時にもそうしたユーモアが出るのですね。それはある種の救いでもあったのでしょう。

 しかし、私と母は大変です。その臭いところ以外に住むところはないのですから。暇を見ては母屋の井戸から水を汲んできてかけて洗い流すのですが、そう簡単には匂いは消えません。かなりの間その匂いは残っていて、何気ない折に不意にプンと鼻孔を襲うのでした。

 幸い、空襲はその一回きりでしたが、日本の各都市への空爆は続いていて、その都度空襲警報のサイレンが鳴り、ほとんど毎夜のように防空壕に駆け込むのでした。
 そんな時、広島に新型の特殊爆弾が落とされたというニュースが伝わって来ました。
 大人たちの間で論争が起こったのを覚えています。防空壕のある竹やぶは少し離れていたのですが、そこまで逃げる際、新型の光線爆弾の被害を避けるため白いものをまとったほうがいいという人と、そんな白いものを身に着けていたら敵に発見されやすいからダメだという人との間の論争です。
 今から考えると、幼稚な論争かもしれませんが、当時としては文字通り命がけの論争なのでした。

          
               空爆後敗戦直前の名古屋中心部

 特殊爆弾はその後、長崎へ落とされ、それから一週間ほどで敗戦を迎えることになるのですが、そうした原爆をも含めた空爆により失われた人命や家屋は実におびただしい数にのぼります。
 B29の発進基地になるサイパンなど南方の島々が米軍の手に落ち、日本の上空の制空権が完全になくなり、まるっきり素っ裸で空爆にさらされるようになった段階で、なぜ降伏しなかったのかと今なお恨めしく思います。
 
 そうすれば、原爆を始めとする空爆で何十万という市民を死なすこともなく、また、あの悲惨な沖縄の地上戦も防ぐことができたのでした。その間に、「国体」をめぐる駆け引きがあったことを歴史は教えてくれます。しかし、死屍累々たる状況下で護持すべき「国体」とは一体なんでしょうか。
 ナチスの生物学的純血主義という抽象的な観念が何百万という人命を奪ったように、この国でも「国体の護持」という抽象物のために多くの人命が失われたのでした。

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消される主体の痕跡 多和田葉子の連作、『アメリカ』を読む

2013-02-09 14:27:29 | 書評
 多和田葉子さんの、『アメリカ 非道の大陸』(2006年 青土社)を読んだ。
 全部で一三章からなるこの小説は、それぞれの章に有機的関連があるようなないような構成で、あえて共通点を挙げれば、舞台がアメリカであること、そしてほとんどの章にアメリカに住まう女性が出てくること、そして狂言回しのようにそれらを訪れる女性が出てくることである。その意味では「短篇集」ではなく「連作」といったほうがいいだろう。

            

 アメリカに住まう人たちは、その職業や階層もまちまちで、その差異が各短編を多彩に彩っているのだが、問題は、各章に共通する狂言回しともいうべき女性の存在である。
 この女性が訪問者として訪れ、明らかにその視線から物語が紡ぎだされているようなのだが、しかし、彼女はイコール語り手ではない。つまり、この女性は決して「私は」と語り出すことをしない。
 それどころか、この女性そのものが対象であるかのように、もう一人の語り手、もう一つの視点が用意され(年齢性別不詳)、各章の訪問者として実質的な語り手であるはずの女性は、「あなた」という二人称で登場するのだ。
 例えばそれはこんな具合に語られる。
 
 「あなたの座っていたテーブルは結局ほかには人が来ず、椅子が四つ空いていた。最初のステージが終わるとジョイが舞台から降りて近づいてきて、隣に座ってもいいかと聞く。あなたがうなずくと、ジョイに呼ばれて他の三人のミュージシャンたちも来てすわった。・・・・・・・・ジョイがあなたを見て、『私達の種族はアルコールは飲まないのよ』と言った。あなたは『種族』という言葉を聞いて・・・・・・・・」(第六章「きつねの森」より)


 いわゆる主人公=語り手ということならば、上の「あなた」に「私」を代入すれば済むのだが、多和田さんはあえて「私」の上位にさらに「メタレベル」にいるかのような語り手を置くことによって、本来なら「私」である場所を「あなた」として相対化してしまう。

 はじめはこの「あなた」に違和感を持つのだが、これが繰り返されるうちにそれが自然なことのように思えてくる。
 この狙いはおそらく、「主体」を「あなた」と呼ぶことによって相対化すること、あるいは、「主体」の上に神のような「視座」をもうひとつ置くことによって「主体を客体化すること」、または「主体の他者性をあぶり出すこと」にあるのではないだろうか。

 そうしたことを考えながら読んでいると、もうひとつ、とんでもないことに気づくこととなる。当初、「あなたと名指された者」も、そして「あなたと名指す者」も、ある意味では作家である多和田さん、ないしはその分身として同一視しながら読み進むのだが、先ほど見たように「あなたと名指す者」が年齢性別不詳であったのと同様に、「あなたと名指された者」も女性だということ以外、年齢も民族や国籍も、職業や階層も全く不詳なのである。
 しかし、その女性は決して「無」ではない。いたるところに感情の吐露があり、繊細で瑞々しい感性の持ち主であるように思えるのだが、その実態は全くわからない仕掛けになっている。

 内容についてだが、各章ともに展開が多彩で、時として意外性もあって面白い。ただし、他の章が雑誌「ユリイカ」に連載されたものであるのに対し、第一三章には単行本化する際に書き下ろされたもののようだが、なくても良かったのではという感がある。他の章に対して幾分異質すぎるからである。
 やはり、「一三章」にしたかったのだろうか。

 「非道の大陸」というサブタイトルから、アメリカを非難や批判する内容を連想されるとしたらそれは大きな間違いである。「非道」なのは定められた道をゆくことがない登場人物たちの生き様であり、それを訪問して歩く「あなたと名指された者」のさすらいであり、それを追体験する私たちなのだ。
 ただし、それを明確にする意味では、大都会であったり、砂漠であったりする「アメリカ」こそがふさわしい舞台というべきであろう。
 ヨーロッパや日本ではこうはいかない。

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私の履歴書(四)国民学校の思い出

2013-02-08 09:39:17 | 想い出を掘り起こす
 以下の写真は内容とは関係ありません。

 疎開地で国民学校へ入学しました。
 木造平屋建ての校舎で、一学年一クラスでした。
 あとで同窓会名簿を見て知ったのですが、私の学年には実に69人の名前が記録されています。
 しかし、これらの人数が同時にいたわけではありません。
 元々の住民のところへ私のような疎開者が加わりました。しかし、その疎開者たちは戦争が終わると都市へ帰ってゆきました。代わりに、満州を始めとする大陸や朝鮮半島や台湾からの引揚者が加わりました。
 引揚者の子たちはどこか垢抜けていました。きっと旧植民地で、支配層としていい暮らしをしていたせいでしょう。それらの子たちもしばらくしたら都会へと移ってっゆきました。
 したがって、名簿上でのこの人数の多さは、敗戦を挟んだ混乱の時代を象徴しているのです。
 
         

 しかし、そうした事情を了解したのは後々のことですから、その前の話をしなければなりません。
 国民学校というのはその名の通り、皇国の民を作るための学校でしたから、教育勅語の精神に乗っ取り、ひたすら忠臣愛国に満ち溢れた、今から考えるとオカルト的とも思える教育がなされていました。
 教科のすべてはいかに皇国の民となり、陛下の赤子として国に尽くすかに絞られていました。

 これは前にも書きましたが、どの学校にも忠魂碑と奉安殿というものがあり、前者はその名の通り、国のために命を落とした忠義の士を讃えるものでした。
 後者はいろいろデザインはあったようですが方形の廟で、そこには陛下の御真影(写真)が収められていました。
 
         

 もちろん普段は厳重に閉じられていましたが、何かの儀式の折にはご開帳となりました。
 しかし、その中をまじまじと見ることは許されませんでした。校庭に整列していると、たいていは教頭が白い手ぶくろでうやうやしくその扉を開くのですが、その途端に「最敬礼」(最も丁寧な敬礼で手の先をひざまで下げ、からだを深く前方に曲げる)の声がかかるのでなかを確かめることはできません。
 どこの文明でも、なぜか最も尊いとされるものには直に触れたり見たりすることは許されないようなのですね。いわゆる御簾越しにというわけです。

 でも、子供にとっては興味があります。見るなといわれればなおさらです。最敬礼をさぼってそーっと頭をもたげ中を確かめようとします。すると「コラッ」と咎められ、時にはげんこつが降ってきます。
 そうした尊い場所ですから、その前を通るときはちゃんと最敬礼をすることが義務付けられていました。ある時私は、校門の外で私を呼ぶ友だちに応えて、最敬礼をしないで通り過ぎたところを教師に見つかり、ビンタをつられました。どういうわけかビンタは「つる」といいますね。なぜなのでしょうか。

            

 わずか6歳の子供相手ですから力いっぱいではなかったのでしょうが、殴られたことは事実です。
今騒がれているいわゆる体罰ですね。
 しかし、その当時は上は軍隊から下は学校まで、これはアタリマエのことでした。ですから誰も問題にせず、したがって「体罰」とか「愛の鞭」なんて言葉すらなかったのではないかと思います。
 ですから、殴られた方にも、それが不当なことだという意識はこれっぽちもありませんでした。
 その折の私にしても、ああ、私は銃後の少国民としてなんという不敬を犯したのだろうかと深く反省したのでした。

         

 昨今の体罰問題を見ていると、もちろんそれはあってはならないことなのですが、反面、それがこうして公に批判されるという世の中はまだマシだという思いがどこかにあります。ですが反面、例えば訴え出た女子柔道の選手は堂々と名乗るべきだなどという主張に出会うと、ああ、この人たちは暴力の持っている根深さを全くわかっていないなぁと思います。
 堂々と名乗り出て訴えることができる環境下では、そんな陰湿な暴力は起こり得ないのです。監督と選手、教師と学童という絶対的な非対称のなかで、言ってみれば、暴力を振るう側は、絶対に反撃されないという構造を前提にしているのですから。

 話が逸れました。
 ようするにわが大日本帝国は、対外的にも、そして対内的にも、暴力や差別、陰湿ないじめ(非国民呼ばわり)によって成立していたのでした。

         
 
 しかし、私にとってはかなり鮮明な記憶として残っている戦前の国民学校ですが、そこでの実体験は四ヶ月にしかならなかったのです。その年の8月15日には、「玉音にわれ関せずと蝉しぐれ」という敗戦の勅語が国民の99.99%が初めて聞く神の声によって語られたからです。

 そしてその結果、この国民学校の体制はガラガラと崩れ落ちるのですが、それはまた、私の疎開生活をさらに数年引き伸ばすことにもなったのです。
 それについてはまた。





 

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【ダラダラ日記】岐阜?名古屋・クリムト・映画・歓談

2013-02-06 22:09:05 | よしなしごと
 名古屋へ行く。
 こんな寒さのなか、ミニスカやショートパンツで太ももを放り出した女性が闊歩している。
 見ている方が寒々とするのだが、そこはやはり、見せる方の努力に報いるためしっかり拝見する。
 私の視線を受け止めたのか、すれ違う時、「どう?」と少し肩をそびやかせて口の端に笑みも浮かぶ。
 と思うのは私の勝手で、内心は「このスケベオヤジが!」と思っているのかもしれない。
 
 親しい方に頂いたチケットでクリムト展を観る。
 クリムトの絵は明快でわかりやすい。ただし、描かれた対象が秘める謎は決してわかりやすいとはいえない。
 大学の天井を飾る絵に、ことごとくクレームが付いたのは面白い。
 当時の大学の合理主義的自意識が、その枠を越えたクリムトの領域を受け止め得なかったのだろうと思う。

 せっかくチケットを頂いたのに、こんなことをいうのは申し訳ないが、周辺の情報が多い割に肝心のクリムトの彩色のタブローが少なかったことはいささか残念だった。
 「接吻」などが来ていないことは知っていたが、ほかにもう少し来ているだろうと一方的に期待していたのが外れた形だ。しかし数少ない色彩のものはどれも見事だった。
 彼の絵に出てくる女性を見ると、私は日本の女優の高畑淳子さんに似ていると思ってしまうのだがどうだろうか。

 
                             ここはレプリカの部屋で撮影OK

 クリムトの絵を見ながら、ふと、作曲家マーラーの夫人のアルマ・マーラーのことを思い出していたのはゴシップ好きが過ぎるかもしれない。クリムトは四大芸術家の未亡人といわれたアルマのお相手のうちのひとりだったはずだ。ほかには建築家と文学者。アルマに創作活動を禁じたマーラーへの報いというべきであろうか。

 その後、映画を観る。
 『東ベルリンから来た女』で、ベルリンの壁崩壊前に、東独の僻地へ飛ばされた女医の話である。
 この邦題は誤解を招きかねない。原題は主人公の名前『バルバラ』である。
 最後の決断を含めていい映画だと思う。
 昨年のキネ旬一位をとった邦画『かぞくのくに』での、北の監視員のセリフ、「だけど私たちはその国で生活しているのです」を思い出した。

          
        通りかかった公園 頭上でパッチン、パッチンと音がした原因がこれ

 今池へ行く。
 ローマ字で書くと私と全く同じ表記になる若い友人に、新しい今池を案内してもらう。
 うまい日本酒を飲ませる店が増えているとかで、冷酒が好きな私には朗報だ。
 
 まず一軒目は、昨年開店したばかりのうどん専門店「太門」。
 目の前で注文があってからうどんを打つ店だが、うどんにたどり着くまでが楽しい。
 私は、三種類の日本酒が選べる「飲み比べセット」を頼んだ。
 最近の日本酒は確かに美味くなったが、一方、没個性的になったのではという危惧もあるが、こうして違う酒を代わる代わる飲んでみるとそれぞれの個性が引き立つ。
 「天領」は若い頃、飛騨地方へアマゴやイワナを追っかけていった際、よく飲んだ酒でとても懐かしい。

          
          三色飲み比べセット こういうのって楽しいんだなぁ

 牛すじのどて煮や三河地鶏の天ぷらなどをつまんでいる間にグラスが空になり、〆のうどんを頼む。
 味がわかりやすいカケにする。
 目の前で打ったうどんが、出てくる。
 コシがあるのはもちろん、のどごしもとてもいい。
 欲をいうと、酒の後だともう少し出汁が薄口でもいいような気がする。
 もちろん、辛すぎるとか濃すぎるわけではない。

 〆だと言いながらそこで終わらないのが酒飲み、もう一軒ということで地下鉄ひと駅分を歩く。
 ここはまた今年開店したばかりの店で、開店からさほど経っていない店の独特の匂いがまだ残っている。「米家」と書いて「まい・ほーむ」と読ませるのだそうだ。
 ここも日本酒にこだわる店で、けっこうレアものを集めている。
 ここでは最初にややコクの有る「純米大吟醸 るみ子の酒 斗瓶取り」を飲む。
 そして、本当の〆で「秋鹿 超辛口 槽搾直汲」を飲んだ。
 これは、大阪の酒だが、隣の奈良の「春鹿」同様辛口で日本酒度が+13というから相当なものだ。
 事実、これを口に含むとキリッとして、これまでのものが甘く感じられるほどである。

              
              法制化されたとかいう自転車専用青色ゾーン

 ここでお開き、中央線、東海道線を経由して帰る。
 ところでこの日、はじめて規制地帯になったところで自転車専用の青いゾーンを走った。
 自転車専用レーンといっても、それ用に作ったのではなく、ただ片側一車線の車道の一部を一メートルほど青く塗っただけでそこを走れというわけだから怖い。
 とくに夜間は、自分の自転車のテールランプがちゃんと光っているだろうかと気にかかる。
 とりわけ大型トラックやバスなどが怖い。その風圧で走行が乱れたり引きこまれそうになったりもする。
 何事も経験と走ってみたが、これからはできるだけ避けるか違反覚悟で歩道を走ろう。
 
 ここのところ多忙な割に地味な予定が続くなかの一日、いろいろな意味で息抜きができた。
 クリムト展のチケットをくれたIさんありがとう。
 与太話に付き合ってくれた同姓同名の人、ありがとう。



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私の履歴書(三)引き離される子どもたち・疎開

2013-02-04 03:47:13 | 想い出を掘り起こす
 1944(昭和19)年には私にとって大きな変動をもたらしたことが二つあって、そのひとつが父が兵役にとられ、すぐさま満州にもってゆかれたことです。
 これについてはhttp://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20130129に書きました。

 そしてもうひとつは、ものごころついて以来住んでいた場所を離れて、母方の田舎の実家、大垣市の郊外に引っ越したことです。いわゆる疎開です。
 この疎開は、サイパン島が米軍の手に落ち、長距離爆撃機B29による空襲必至というなかで、自主的にも行われましたが、一方、大都市児童の生命を守るためということで、44年6月には、当時の閣議で〈学童疎開促進要綱〉が決定されました。

           

 この決定は、親戚縁者を頼っての縁故疎開を原則とするといわれていましたが、そうした縁故のない学童たちは、半ば強制的に親元を離れて「集団疎開」をさせられたのです。
 私の場合は、幸い(いささかの問題もあったのですが)このうちの縁故疎開でした。
 当時の学童の疎開状況を名古屋で発刊している同人誌『遊民』第三号の伊藤幹彦さんの文章から拾うと、縁故疎開、集団疎開、疎開しなかった残留者はそれぞれ三分の一ぐらいだったそうです。

           

 私は不明にも、都市部の殆どの子が縁故であれ集団であれ、疎開をしたものと思っていたので、残留者のこの多さには少なからず驚きました。なぜ、危険を犯して居残ったのか、その理由の大半は経済的なものでした。
 集団疎開には必要な携行品があったのです。寝具一式、衣類一式、日用品一式、学用品一式などがそれでした。
 おまけに、疎開した学童一人につき、月々今の金額に換算すると2万円ほどの経費が要ったのです。産めよ増やせの子沢山で親子何人かがひとつ布団にくるまるような生活で、その上、働き手の父を兵隊にとれれていたりしたら、そんな金額は調達できるはずはないのでした。

 今にして、集団疎開すら出来なかった多くの少年少女たちがあの無差別爆撃のなかで焼かれて命を落としたのかと思うと同世代としてキリキリ胸が痛みます。

 疎開できたとはいえ、集団疎開は大変でした。今の集団合宿などとは大違いです。宿泊はほとんどが田舎の寺の本堂などでの雑魚寝で、洗面所や便所は行列、風呂は何日かおきといった状況でした。
 その上、集団生活につきものの序列による支配体制が時としては陰湿ないじめとなって子どもたちを苛んだといいます。
 これらの詳細もまた、上掲の『遊民』第三号の伊藤幹彦さんが自分の実体験として語るところです。

             

 私はすでに述べましたように縁故疎開で母方の実家へ行ったわけですが、ままごとやお医者さんごっこ(女の子が多かったので私がいじくり回された)などで遊び慣れていた友達と引き離されて田舎へ行くのは寂しくて仕方がありませんでした。
 母屋と離れた所に、井戸もトイレもないトタン葺きの掘っ立て小屋をあてがわれ、そこに住んだのでした。トイレはその掘っ立て小屋からさらに20メートルほど離れた大きなイチジクの木の下にあり、昼間はともかく、夜に用足しに行くのは本当に怖かったのです。
 もとより田舎のこと、灯火管制以前に真っ暗闇なのです。トイレ近くのイチジクの木から「ケッケッケッ」と得体のしれない鳥が急に飛び立ったりすると、思わず漏らしそうになるのでした。

           

 入浴は母屋のもらい風呂で、何日かに一度、十人ほどの大家族が入った後のほとんどドロドロした感じのしまい湯に入るのが常でした。いわゆる五右衛門風呂でしたから、浮いている板を均等に沈めて入るのにはある程度の要領が要りました。
 幸い、風呂場には電灯がなかったのでその汚い湯を見ることなく、冬季にはただ温まるのみですぐに出たのでした。夏はもちろん行水で、風呂には入りませんでした。

 食事は幸い母屋が農家だったので全く食い物がないということはありませんでしたが、米の飯は何かのハレの日にしか口に出来ませんでした。さつまいもやかぼちゃ、精白されていないふすま入りのザラザラのメリケン粉で作ったスイトンなどをよく食べました。もちろん。おかずではなくそれらが主食ですよ。

           

 当然のことでしたが、おやつなどは全くありません。かわいそうに思った祖母が、塩をなんかの紙に少し包んでくれて、あそこからあそこまではうちの畑だから、好きなものをとって食べてもいいよといってくれました。
 敗戦の年の夏だったと思います。私はそこにあったキュウリやナスに塩を付けて貪るように食べました。野菜の美味しさに開眼したのはその折です。

 それを目撃していた女の子がいました。そして翌日学校で、六はよその畑のものを盗み食いをしていたといいふらしました。「どろぼう」となじられました。「あれはうちの婆さんちの畑だ」と懸命に抗弁しましたが、「疎開者に畑があるもんか」と取り合ってくれません。
 その女の子が鬼に見えました。そして別れてきたお医者さんごっこの女の子を女神のように思い出していたのでした。

 疎開生活での話はさらに続きます。

 

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行きつけの床屋さんと『4分33秒』

2013-02-02 01:05:28 | インポート
 昨年から、床屋はろう者のひとがやっている店に決めています。
 この店がとても気に入っているのです。
 昨日も行って来ました。
 ラジオもTVもBGもない沈黙の世界です。
 かと言って全くの無音ではありません。
 彼がいそいそと働く音がしますし、防音などしていない戸外からは行き交う車の音や、下校時の子どもたちが声高に話しながら行き過ぎるのも聞こえます。
 しかし、ことさらに意味合いをもって迫る音はないのです。

          

 坐禅というものはやったことがないのですが、意外と私には合っているかもしれません。言葉を発しない時間、言葉や有意味な音を聞かないで済む時間というのはけっこう好きなのです。
 もっとも気持ちよく寝てしまって、ひっぱたかれることは必定ですが。

 ここへ来るといつも、ジョン・ケージの作品『4分33秒』を思い出します。
 プレイヤーがなにもしないままに4分33秒が過ぎるというものですから、私にも演奏できるかもしれません。ちなみに、ピアノが一般的なようですが、とくに楽器は指定されていないようです。
 そりゃぁそうでしょうね。音を出さないのですから、楽器の指定には意味が無いでしょう。もっとも視覚的な違いはあるでしょうが。

             

 この無音ともいうべき「音楽」と言うかパフォーマンスは、Youtubeでも観ることはできますが、驚いたことにCDにも収録されているんですね。しかも演奏者名を付してです。
 でも、どうやって「聴く」のでしょうね。いえ、私はそんなもの買いませんよ。そんなものなくとも、黙って4分33秒のあいだ虚空でも見つめていれば済むことですから。

          

 ところで、あの「音楽」も決して無音ではありません。とりわけ、ライブの場合には人々の佇まいが発する微細な音や、静寂であればこそ聞こえる音ともいえない音があるのです。
 その音を聞くのがあの曲の鑑賞方法だなどともっともらしく説明されたりもしますが、そうばかりではないと思います。
 言語芸術でもそうですが、これまで書かれたことのない言葉を記したい、あるいは、言葉にできないものを表現したい、そしてそれをもって日常性を超えたいという欲望があり、それが連綿として詩や散文の世界を彩ってきています。
 そして音楽の世界にもそれはあるのです。
 ようするに、誰も発したことがない音の追求、音にはできない音の追求の行き着いた先がケージのあの「音楽」なのでしょう。

             

 ここから先は私の発見、ないしは単なる私的な見解なのですが、そうした音楽の先達はあのロベルト・シューマンではないかと思うのです。
 彼のピアノ曲『フモレスケ』op.20には、演奏されないメロディ(内なる声)が書き込まれていて、そのため、普通二段の五線譜で表わされる楽譜の真ん中に、もう一段、決して演奏されない楽譜がはさまっているというのです。そういえば彼は、「音楽にならない音楽」を求めるという意味のことも日記かなんかに書いていたようなのです。

 ケージの『4分33秒』に戻りましょう。
 なぜこの曲は、この時間なのでしょう。4分32秒や4分34秒であったり、あるいは3分58秒であってはダメなのでしょうか。
 これを秒数に直すと273秒になり、-273度は絶対0度だからつまるところ「無」を表すのだと、ケージの禅への関心と絡めて説明するものもあるようですが、ちょっともって回った感じが否めませんから素直には首肯できません。
 もともと、偶然性に委ねられた「音楽」なのですから、その長さも偶然の産物だとして余計な説明を加えないほうが自然なようにも思うのです。

          

 いずれにしても私は、時折、そのケージの音楽のライブに似た環境で、時間にしてその15倍分の「音楽」を鑑賞することができるわけです。
 シニア料金の、たった1,700円で。


本当はこの床屋さんとの関連で、子供の頃ろう学校の子どもたちと遊んだこと(家が近くだった)や、最近勉強している言葉についての関連で手話についての話も書きたかったのですが、もう十分な長さですね。次の機会に譲りましょう。
 最近、なにか書きだすと、あれもこれもと埋もれていた記憶や勉強してきたことなどが思い出されて、筆が止まらないのです。死期が近づくとあれこれと走馬燈のように情景が浮かぶといいますが、それに近いのでしょうか。
 そういえば「私の履歴書」シリーズも1944年の後半が書きかけでしたね。


 

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