昨年から、床屋はろう者のひとがやっている店に決めています。
この店がとても気に入っているのです。
昨日も行って来ました。
ラジオもTVもBGもない沈黙の世界です。
かと言って全くの無音ではありません。
彼がいそいそと働く音がしますし、防音などしていない戸外からは行き交う車の音や、下校時の子どもたちが声高に話しながら行き過ぎるのも聞こえます。
しかし、ことさらに意味合いをもって迫る音はないのです。
坐禅というものはやったことがないのですが、意外と私には合っているかもしれません。言葉を発しない時間、言葉や有意味な音を聞かないで済む時間というのはけっこう好きなのです。
もっとも気持ちよく寝てしまって、ひっぱたかれることは必定ですが。
ここへ来るといつも、ジョン・ケージの作品『4分33秒』を思い出します。
プレイヤーがなにもしないままに4分33秒が過ぎるというものですから、私にも演奏できるかもしれません。ちなみに、ピアノが一般的なようですが、とくに楽器は指定されていないようです。
そりゃぁそうでしょうね。音を出さないのですから、楽器の指定には意味が無いでしょう。もっとも視覚的な違いはあるでしょうが。
この無音ともいうべき「音楽」と言うかパフォーマンスは、Youtubeでも観ることはできますが、驚いたことにCDにも収録されているんですね。しかも演奏者名を付してです。
でも、どうやって「聴く」のでしょうね。いえ、私はそんなもの買いませんよ。そんなものなくとも、黙って4分33秒のあいだ虚空でも見つめていれば済むことですから。
ところで、あの「音楽」も決して無音ではありません。とりわけ、ライブの場合には人々の佇まいが発する微細な音や、静寂であればこそ聞こえる音ともいえない音があるのです。
その音を聞くのがあの曲の鑑賞方法だなどともっともらしく説明されたりもしますが、そうばかりではないと思います。
言語芸術でもそうですが、これまで書かれたことのない言葉を記したい、あるいは、言葉にできないものを表現したい、そしてそれをもって日常性を超えたいという欲望があり、それが連綿として詩や散文の世界を彩ってきています。
そして音楽の世界にもそれはあるのです。
ようするに、誰も発したことがない音の追求、音にはできない音の追求の行き着いた先がケージのあの「音楽」なのでしょう。
ここから先は私の発見、ないしは単なる私的な見解なのですが、そうした音楽の先達はあのロベルト・シューマンではないかと思うのです。
彼のピアノ曲『フモレスケ』op.20には、演奏されないメロディ(内なる声)が書き込まれていて、そのため、普通二段の五線譜で表わされる楽譜の真ん中に、もう一段、決して演奏されない楽譜がはさまっているというのです。そういえば彼は、「音楽にならない音楽」を求めるという意味のことも日記かなんかに書いていたようなのです。
ケージの『4分33秒』に戻りましょう。
なぜこの曲は、この時間なのでしょう。4分32秒や4分34秒であったり、あるいは3分58秒であってはダメなのでしょうか。
これを秒数に直すと273秒になり、-273度は絶対0度だからつまるところ「無」を表すのだと、ケージの禅への関心と絡めて説明するものもあるようですが、ちょっともって回った感じが否めませんから素直には首肯できません。
もともと、偶然性に委ねられた「音楽」なのですから、その長さも偶然の産物だとして余計な説明を加えないほうが自然なようにも思うのです。
いずれにしても私は、時折、そのケージの音楽のライブに似た環境で、時間にしてその15倍分の「音楽」を鑑賞することができるわけです。
シニア料金の、たった1,700円で。
*本当はこの床屋さんとの関連で、子供の頃ろう学校の子どもたちと遊んだこと(家が近くだった)や、最近勉強している言葉についての関連で手話についての話も書きたかったのですが、もう十分な長さですね。次の機会に譲りましょう。
最近、なにか書きだすと、あれもこれもと埋もれていた記憶や勉強してきたことなどが思い出されて、筆が止まらないのです。死期が近づくとあれこれと走馬燈のように情景が浮かぶといいますが、それに近いのでしょうか。
そういえば「私の履歴書」シリーズも1944年の後半が書きかけでしたね。
この店がとても気に入っているのです。
昨日も行って来ました。
ラジオもTVもBGもない沈黙の世界です。
かと言って全くの無音ではありません。
彼がいそいそと働く音がしますし、防音などしていない戸外からは行き交う車の音や、下校時の子どもたちが声高に話しながら行き過ぎるのも聞こえます。
しかし、ことさらに意味合いをもって迫る音はないのです。
坐禅というものはやったことがないのですが、意外と私には合っているかもしれません。言葉を発しない時間、言葉や有意味な音を聞かないで済む時間というのはけっこう好きなのです。
もっとも気持ちよく寝てしまって、ひっぱたかれることは必定ですが。
ここへ来るといつも、ジョン・ケージの作品『4分33秒』を思い出します。
プレイヤーがなにもしないままに4分33秒が過ぎるというものですから、私にも演奏できるかもしれません。ちなみに、ピアノが一般的なようですが、とくに楽器は指定されていないようです。
そりゃぁそうでしょうね。音を出さないのですから、楽器の指定には意味が無いでしょう。もっとも視覚的な違いはあるでしょうが。
この無音ともいうべき「音楽」と言うかパフォーマンスは、Youtubeでも観ることはできますが、驚いたことにCDにも収録されているんですね。しかも演奏者名を付してです。
でも、どうやって「聴く」のでしょうね。いえ、私はそんなもの買いませんよ。そんなものなくとも、黙って4分33秒のあいだ虚空でも見つめていれば済むことですから。
ところで、あの「音楽」も決して無音ではありません。とりわけ、ライブの場合には人々の佇まいが発する微細な音や、静寂であればこそ聞こえる音ともいえない音があるのです。
その音を聞くのがあの曲の鑑賞方法だなどともっともらしく説明されたりもしますが、そうばかりではないと思います。
言語芸術でもそうですが、これまで書かれたことのない言葉を記したい、あるいは、言葉にできないものを表現したい、そしてそれをもって日常性を超えたいという欲望があり、それが連綿として詩や散文の世界を彩ってきています。
そして音楽の世界にもそれはあるのです。
ようするに、誰も発したことがない音の追求、音にはできない音の追求の行き着いた先がケージのあの「音楽」なのでしょう。
ここから先は私の発見、ないしは単なる私的な見解なのですが、そうした音楽の先達はあのロベルト・シューマンではないかと思うのです。
彼のピアノ曲『フモレスケ』op.20には、演奏されないメロディ(内なる声)が書き込まれていて、そのため、普通二段の五線譜で表わされる楽譜の真ん中に、もう一段、決して演奏されない楽譜がはさまっているというのです。そういえば彼は、「音楽にならない音楽」を求めるという意味のことも日記かなんかに書いていたようなのです。
ケージの『4分33秒』に戻りましょう。
なぜこの曲は、この時間なのでしょう。4分32秒や4分34秒であったり、あるいは3分58秒であってはダメなのでしょうか。
これを秒数に直すと273秒になり、-273度は絶対0度だからつまるところ「無」を表すのだと、ケージの禅への関心と絡めて説明するものもあるようですが、ちょっともって回った感じが否めませんから素直には首肯できません。
もともと、偶然性に委ねられた「音楽」なのですから、その長さも偶然の産物だとして余計な説明を加えないほうが自然なようにも思うのです。
いずれにしても私は、時折、そのケージの音楽のライブに似た環境で、時間にしてその15倍分の「音楽」を鑑賞することができるわけです。
シニア料金の、たった1,700円で。
*本当はこの床屋さんとの関連で、子供の頃ろう学校の子どもたちと遊んだこと(家が近くだった)や、最近勉強している言葉についての関連で手話についての話も書きたかったのですが、もう十分な長さですね。次の機会に譲りましょう。
最近、なにか書きだすと、あれもこれもと埋もれていた記憶や勉強してきたことなどが思い出されて、筆が止まらないのです。死期が近づくとあれこれと走馬燈のように情景が浮かぶといいますが、それに近いのでしょうか。
そういえば「私の履歴書」シリーズも1944年の後半が書きかけでしたね。