1944(昭和19)年には私にとって大きな変動をもたらしたことが二つあって、そのひとつが父が兵役にとられ、すぐさま満州にもってゆかれたことです。
これについてはhttp://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20130129に書きました。
そしてもうひとつは、ものごころついて以来住んでいた場所を離れて、母方の田舎の実家、大垣市の郊外に引っ越したことです。いわゆる疎開です。
この疎開は、サイパン島が米軍の手に落ち、長距離爆撃機B29による空襲必至というなかで、自主的にも行われましたが、一方、大都市児童の生命を守るためということで、44年6月には、当時の閣議で〈学童疎開促進要綱〉が決定されました。
この決定は、親戚縁者を頼っての縁故疎開を原則とするといわれていましたが、そうした縁故のない学童たちは、半ば強制的に親元を離れて「集団疎開」をさせられたのです。
私の場合は、幸い(いささかの問題もあったのですが)このうちの縁故疎開でした。
当時の学童の疎開状況を名古屋で発刊している同人誌『遊民』第三号の伊藤幹彦さんの文章から拾うと、縁故疎開、集団疎開、疎開しなかった残留者はそれぞれ三分の一ぐらいだったそうです。
私は不明にも、都市部の殆どの子が縁故であれ集団であれ、疎開をしたものと思っていたので、残留者のこの多さには少なからず驚きました。なぜ、危険を犯して居残ったのか、その理由の大半は経済的なものでした。
集団疎開には必要な携行品があったのです。寝具一式、衣類一式、日用品一式、学用品一式などがそれでした。
おまけに、疎開した学童一人につき、月々今の金額に換算すると2万円ほどの経費が要ったのです。産めよ増やせの子沢山で親子何人かがひとつ布団にくるまるような生活で、その上、働き手の父を兵隊にとれれていたりしたら、そんな金額は調達できるはずはないのでした。
今にして、集団疎開すら出来なかった多くの少年少女たちがあの無差別爆撃のなかで焼かれて命を落としたのかと思うと同世代としてキリキリ胸が痛みます。
疎開できたとはいえ、集団疎開は大変でした。今の集団合宿などとは大違いです。宿泊はほとんどが田舎の寺の本堂などでの雑魚寝で、洗面所や便所は行列、風呂は何日かおきといった状況でした。
その上、集団生活につきものの序列による支配体制が時としては陰湿ないじめとなって子どもたちを苛んだといいます。
これらの詳細もまた、上掲の『遊民』第三号の伊藤幹彦さんが自分の実体験として語るところです。
私はすでに述べましたように縁故疎開で母方の実家へ行ったわけですが、ままごとやお医者さんごっこ(女の子が多かったので私がいじくり回された)などで遊び慣れていた友達と引き離されて田舎へ行くのは寂しくて仕方がありませんでした。
母屋と離れた所に、井戸もトイレもないトタン葺きの掘っ立て小屋をあてがわれ、そこに住んだのでした。トイレはその掘っ立て小屋からさらに20メートルほど離れた大きなイチジクの木の下にあり、昼間はともかく、夜に用足しに行くのは本当に怖かったのです。
もとより田舎のこと、灯火管制以前に真っ暗闇なのです。トイレ近くのイチジクの木から「ケッケッケッ」と得体のしれない鳥が急に飛び立ったりすると、思わず漏らしそうになるのでした。
入浴は母屋のもらい風呂で、何日かに一度、十人ほどの大家族が入った後のほとんどドロドロした感じのしまい湯に入るのが常でした。いわゆる五右衛門風呂でしたから、浮いている板を均等に沈めて入るのにはある程度の要領が要りました。
幸い、風呂場には電灯がなかったのでその汚い湯を見ることなく、冬季にはただ温まるのみですぐに出たのでした。夏はもちろん行水で、風呂には入りませんでした。
食事は幸い母屋が農家だったので全く食い物がないということはありませんでしたが、米の飯は何かのハレの日にしか口に出来ませんでした。さつまいもやかぼちゃ、精白されていないふすま入りのザラザラのメリケン粉で作ったスイトンなどをよく食べました。もちろん。おかずではなくそれらが主食ですよ。
当然のことでしたが、おやつなどは全くありません。かわいそうに思った祖母が、塩をなんかの紙に少し包んでくれて、あそこからあそこまではうちの畑だから、好きなものをとって食べてもいいよといってくれました。
敗戦の年の夏だったと思います。私はそこにあったキュウリやナスに塩を付けて貪るように食べました。野菜の美味しさに開眼したのはその折です。
それを目撃していた女の子がいました。そして翌日学校で、六はよその畑のものを盗み食いをしていたといいふらしました。「どろぼう」となじられました。「あれはうちの婆さんちの畑だ」と懸命に抗弁しましたが、「疎開者に畑があるもんか」と取り合ってくれません。
その女の子が鬼に見えました。そして別れてきたお医者さんごっこの女の子を女神のように思い出していたのでした。
疎開生活での話はさらに続きます。
これについてはhttp://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20130129に書きました。
そしてもうひとつは、ものごころついて以来住んでいた場所を離れて、母方の田舎の実家、大垣市の郊外に引っ越したことです。いわゆる疎開です。
この疎開は、サイパン島が米軍の手に落ち、長距離爆撃機B29による空襲必至というなかで、自主的にも行われましたが、一方、大都市児童の生命を守るためということで、44年6月には、当時の閣議で〈学童疎開促進要綱〉が決定されました。
この決定は、親戚縁者を頼っての縁故疎開を原則とするといわれていましたが、そうした縁故のない学童たちは、半ば強制的に親元を離れて「集団疎開」をさせられたのです。
私の場合は、幸い(いささかの問題もあったのですが)このうちの縁故疎開でした。
当時の学童の疎開状況を名古屋で発刊している同人誌『遊民』第三号の伊藤幹彦さんの文章から拾うと、縁故疎開、集団疎開、疎開しなかった残留者はそれぞれ三分の一ぐらいだったそうです。
私は不明にも、都市部の殆どの子が縁故であれ集団であれ、疎開をしたものと思っていたので、残留者のこの多さには少なからず驚きました。なぜ、危険を犯して居残ったのか、その理由の大半は経済的なものでした。
集団疎開には必要な携行品があったのです。寝具一式、衣類一式、日用品一式、学用品一式などがそれでした。
おまけに、疎開した学童一人につき、月々今の金額に換算すると2万円ほどの経費が要ったのです。産めよ増やせの子沢山で親子何人かがひとつ布団にくるまるような生活で、その上、働き手の父を兵隊にとれれていたりしたら、そんな金額は調達できるはずはないのでした。
今にして、集団疎開すら出来なかった多くの少年少女たちがあの無差別爆撃のなかで焼かれて命を落としたのかと思うと同世代としてキリキリ胸が痛みます。
疎開できたとはいえ、集団疎開は大変でした。今の集団合宿などとは大違いです。宿泊はほとんどが田舎の寺の本堂などでの雑魚寝で、洗面所や便所は行列、風呂は何日かおきといった状況でした。
その上、集団生活につきものの序列による支配体制が時としては陰湿ないじめとなって子どもたちを苛んだといいます。
これらの詳細もまた、上掲の『遊民』第三号の伊藤幹彦さんが自分の実体験として語るところです。
私はすでに述べましたように縁故疎開で母方の実家へ行ったわけですが、ままごとやお医者さんごっこ(女の子が多かったので私がいじくり回された)などで遊び慣れていた友達と引き離されて田舎へ行くのは寂しくて仕方がありませんでした。
母屋と離れた所に、井戸もトイレもないトタン葺きの掘っ立て小屋をあてがわれ、そこに住んだのでした。トイレはその掘っ立て小屋からさらに20メートルほど離れた大きなイチジクの木の下にあり、昼間はともかく、夜に用足しに行くのは本当に怖かったのです。
もとより田舎のこと、灯火管制以前に真っ暗闇なのです。トイレ近くのイチジクの木から「ケッケッケッ」と得体のしれない鳥が急に飛び立ったりすると、思わず漏らしそうになるのでした。
入浴は母屋のもらい風呂で、何日かに一度、十人ほどの大家族が入った後のほとんどドロドロした感じのしまい湯に入るのが常でした。いわゆる五右衛門風呂でしたから、浮いている板を均等に沈めて入るのにはある程度の要領が要りました。
幸い、風呂場には電灯がなかったのでその汚い湯を見ることなく、冬季にはただ温まるのみですぐに出たのでした。夏はもちろん行水で、風呂には入りませんでした。
食事は幸い母屋が農家だったので全く食い物がないということはありませんでしたが、米の飯は何かのハレの日にしか口に出来ませんでした。さつまいもやかぼちゃ、精白されていないふすま入りのザラザラのメリケン粉で作ったスイトンなどをよく食べました。もちろん。おかずではなくそれらが主食ですよ。
当然のことでしたが、おやつなどは全くありません。かわいそうに思った祖母が、塩をなんかの紙に少し包んでくれて、あそこからあそこまではうちの畑だから、好きなものをとって食べてもいいよといってくれました。
敗戦の年の夏だったと思います。私はそこにあったキュウリやナスに塩を付けて貪るように食べました。野菜の美味しさに開眼したのはその折です。
それを目撃していた女の子がいました。そして翌日学校で、六はよその畑のものを盗み食いをしていたといいふらしました。「どろぼう」となじられました。「あれはうちの婆さんちの畑だ」と懸命に抗弁しましたが、「疎開者に畑があるもんか」と取り合ってくれません。
その女の子が鬼に見えました。そして別れてきたお医者さんごっこの女の子を女神のように思い出していたのでした。
疎開生活での話はさらに続きます。
毎回読ませていただいてます。今回もとても貴重なお話をありがとうございます。
疎開しなかった(出来なかった)子供達が三分の一もいた事には驚きました。
疎開そのものも十分な悲劇だと思いますが、空襲に怯え戦火に逃げ惑う暮らしや、そこで命を落とした人々を考える時、今を生きる大人としての使命ほど自明なものは無いと感じます。
ちなみに私の父親も縁故疎開経験者ですが、父の場合は疎開先の待遇が気に食わなかったらしく、数日で自宅に戻ったそうです。
記録映像や教科書だけでは伝わらない数多の体験談は貴重ですね。
柴田道子=疎開して一番つらかったことは何か、それはお腹が空いたこと、家に帰りたかったことよりも、仲間外れになることと疎開児は答えるでしょう。
小林信彦=集団疎開で僕が得たもの、それは被害者意識だけでなく、いざ゜となったら自分だって何をするかわからないという認識であり、その後いろいろツライことがあったが、この時には及ばない。
私も自分の経験から都会のほとんどの子が疎開したとばかり思っていました。
私の先達というべき人で、志のある人たちは戦争の語り部としていろいろ話していらっしゃいます。
気づけば、私などがなんとか戦争を知っている最後の年代のようなので、分かる範囲で書いてゆきたいと思います。
>只今さん
私の場合は縁故疎開で、今回は辛かったことのみを書きましたが、恵まれていた面もあったわけです。
その点では、集団疎開は大部分の子どもたちにとっては、一昔前に流行った言葉で言えば「極限状況」に近かったのですね。