六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

虎との対話は可能なのか? アン・リー『ライフ・オブ・パイ』を観る

2013-02-15 03:04:28 | 映画評論
 最初、新聞やTVなどで宣伝を見た時、いわゆるキワモノ映画の一種かと思いました。
 だってそうでしょう、虎と少年がひとつのボートに乗って漂流するという話ですから、なんとなく見せ所も含めて読めてしまうような気がするじゃぁありませんか。

             

 しかし、詳細を見るとどうも様子が違うようです。
 原作はカナダ人作家のヤン・マーテルが2001年に発表し、ブッカー賞(その年で最も優れた英語圏の長編小説に与えられる。日本人のカズオ・イシグロもかつて受賞)を受賞した世界的ベストセラー小説『パイの物語』だというのです。しかし、私の食指を動かしたのはそればかりではありません。
 
 監督の名前を見てこれはと思いました。かつて私が感動した映画『ブロークバック・マウンテン』や『ラスト・コーション』のアン・リー(李安)監督の映画なのです。
 折しも、ネットで知り合ったひと(一度、一緒に飲んだいい思い出があります)がこれを原語で読み、かつ翻訳で読み、そして映画も観たといっていました。しかもそれらの経緯は、このひとの淋しい思い出を伴うものでもありました。

 これだけ要件が揃えば食指どころではありません。もう観るっきゃないでしょう。
 で、観にゆきました。
 岐阜市の映画館では私の都合のつく時間帯と外れていましたので郊外まで車を飛ばしました。
 料金を払うという段で、一悶着がありました。
 もう400円よこせといいます。
 なんと私が観に行った回は3D上映で眼鏡などの追加料金が要るというのです。
 私はそんなものは要らないからといったのですが、眼鏡がないと映像がぶれて見えますよとのことで仕方なくそれを払いました。

          

 『アバター』を観たことがあるのですが、3Dが映画の将来に何をもたらすのかは今のところ私にとっては不確定です。
 家のなかの廊下の、ただかすかにカーテンが揺れるだけという小津のモノクロの場面(これはいろんな映画で多用されています)の奥行きの感覚や、ロー・アングルでの人物のまさに立体感は、人工的な虚像ではないにもかかわらずそれ自体でリアルなのです。

 しかし、トーキーやカラーが映画の様々な可能性を広げてきたように、3Dがそうならないとはいえないでしょうね。現実に、蝶々や鳥が、私の顔の前まで飛んでくるのは楽しいものです。
 この件については保留です。
 もし、まだ生きていたら30年後ぐらいにその正否について書きましょう。

          

 で、映画ですが、CMなどで報じられているように、船が難破し、少年と虎とが同じボートで漂流する物語です。
 それが227日に及ぶというのですから驚異というか、もともとフィクションであるとしたらなぜこの日数か、ちょっと長すぎないかという気もしますがそれはまあいいでしょう。
 この映画の核心はコミュニケーションの可能性と不可能性ではないかと思いました。
 何をまた小賢しい理屈をくっつけているのかと言われるかもしれませんが、主人公の少年そのものが、「どうやってコミュニケーションをとればいいのだ」と映画のなかで現実にいっているのです。

 私たちは虎との間に共通するコードをもっていません。したがって、虎と会話をすることはできないのです。
 動物学者は、虎の鳴き声や仕草を解析し、これこれの場合はこう訴えているというかもしれません。しかし、彼らは虎の檻のなかで虎と会話などできないのです。

          

 少年は虎とのコミュニケーションに成功したのでしょうか。
 ある種の棲み分けが可能になったのは事実でしょう。しかし、一番大きいのは喰うか喰われるかの関係から共に喰うという連帯が生じたことかも知れません。
 映画では明示されてはいませんが、彼以外の者はすべてこの虎に喰われています。したがってこの、ともに喰うという関係も双方向ではなく、彼が虎の食い物を必死で調達することによって成立しているといわざるを得ません。

 この虎(リチャード・パーカーという名前です)がどこまでその関係がわかっていたかということは、私たちにも、そしてその少年にもわかりません。
 この映画が、一般的な臭い「愛情物語」に終わっていないのは、このわからなさをそのまま保持しているからではないでしょうか。少年そのものが、リチャード・パーカーとの間にある種の幻想を持っています。ですから、別れの時、リチャードが彼の方を振り向いてくれることを期待するのです。
 しかし、結果は彼の期待を裏切ります。そしてそれが真実なのです。それはまさに、私たちが安易に使う「他者の他者性」のリアルなありようなのです。

          

 では、言語やその他の共通するコードがあればコミュニケーションは可能になるのでしょうか。
 それは、船舶事故に関わる日本の保険会社の調査員(二人)が少年に証言を求める場面で明確になります。
 少年も調査員も、堪能に英語を操るという意味で共通のコードを持っています。
 しかし、日本の調査員たちは少年の語るリチャードとの漂流を全く理解できないのです。
 ようするに、外在的な共通コードを持っていても、コミュニケーションは不全に陥ることがあるのです。

          

 そうすると私たちは、少年とリチャードとの、通じたか通じなかったかが定かではない関係でのコミュニケーションへと引き戻されます。
 そしてそれでいいのです。
 リチャードが振り向かなかったところにこの映画の強度が凝縮されていて、コミュニケーションの可能性と不可能性とがまさに具体的に提示されているのです。
 繰り返しますが、それが真実なのです。
 そしてそれが、この映画を「冒険と愛情の物語」という薄っぺらさから救っているのだと思いました。

 私一流の屁理屈はともかく、面白かったですよ。
 お勧めです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東條由布子さんの死

2013-02-15 02:36:23 | ひとを弔う
       

 一昨日、東条英機の孫、東條由布子さん(1939年5月20日~)が亡くなられたそうです。
 実際には東條姓ではないにもかかわらず、祖父を敬愛するあまりその姓を名乗り続け、祖父の業績を正当化するために修正史観を広めるイデオローグとして機能し続けました。
 そのありようは、彼女の父であり、英機の子息であった英隆氏が、その父に対してきわめて批判的であったのとは対照的でした。

 しかし、彼女にも哀しい側面があり、小学生の頃、英機の孫であるというのみで黒板の前に立たされ、教師や同級生たちからいわれなき罵倒を受けたことがあったそうです。
 もともと個別であるひとを、ある範疇へと還元し(例えば、右翼、左翼などなど)、これをいっぱひとからげに規定し、その上に立って抑圧や差別を加えるという日本人の習性が、幼い彼女をどれほど理不尽に傷つけたかと思うと不憫でなりません。

 長じて彼女が喧伝して歩いた修正史観や旧体制賛美のイデオロギーには全くもって賛成はできませんでしたが、あの東条英機の孫に生まれ合わせたばかりに歴史の波間に揉まれ、戦後の激動期を(私などと)共に生きてきたひとりの人間として、彼女の死を悼みたいと思います。    合掌


<付記>私は国民学校一年生の折、「何になりたいか」という問いに「東条英機のような偉い大将になりたい」というと大人たちが「お前は偉い」と褒めてくれたことを覚えています。もちろん、敗戦前です。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする