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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の履歴書(五)空襲 これぞ「ヤケ糞」

2013-02-12 02:17:31 | 想い出を掘り起こす
 私の疎開生活は戦中にとどまらず戦後数年に及びました。なぜそうなったかを述べる前にもう少し敗戦までのことを語るべきでしょうね。

 1944(昭和19)年の末から翌年にかけて、私が疎開をしていた田舎でももよく空襲警報が発令され、防空壕に逃げ込む回数が増えるようになりました。南方諸島が米軍の手に落ちるにしたがい、そこを発進基地とする本土空襲が日増しに激しくなったのです。
 
 これは後から調べて知ったのですが、東京では44(昭和19)年11月14日以降、106回もの空襲を受けたそうです。特に翌45(昭20)年の3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模で、なかでもとりわけひどく、死者が10万人以上になった3月10日のものをさして東京大空襲というようです。

              
          B29 大きい黒いものは爆弾 ゴマ粒のようなものは焼夷弾

 私が直接見聞きしたものは、以下のものです。
 まずは名古屋大空襲ですが、軍需工場が多かったこの都市も数次にわたって空襲を受けました。いつのものかは覚えていませんが、私の疎開地から見て南東の方角の夜空が赤く染まっていて、大人たちが「名古屋がやられている」といっていたのを覚えています。
 もちろんそれのみではなく、現在、夏の夜にあちこちで花火大会があるように、毎晩どこかの都市の空が紅蓮の炎に彩られたのでした。

 そして7月9日の岐阜の空襲です。
 わずか20キロほどの距離とあって、東の空が真っ赤に焼けているのが手に取るように見えました。時々、何かが爆発するのでしょうか、どっと火の手が大きくなったりするのも見えました。
 「ああ、岐阜の家が燃えている」と母が呻くようにいっていたのを覚えています。

 そして、その20日後の7月29日のことです。今度は大垣の空襲でした。
 自分たちの真上をB29が不気味な重低音を響かせながら焼夷弾や爆弾を次々に投下しているのですから、名古屋や岐阜の時のようにそれらを見ていることなどとても出来ません。
 ひたすら、防空壕のなかで震えていました。

              
                空爆下の名古屋市街

 私の疎開地は大垣でも郊外の田園地帯でしたから、そこまでは大丈夫だと思っていたのですが、かつて紡績工場だったところが軍需工場になっていて、そこを守護する高射砲陣地もあったりし、それをまた米軍に完全にキャッチされていて、市街地同様に爆撃にさらされたのでした。
 そのうちに、とてつもない地響きがして、横穴式の防空壕の入り口がバラバラバラと降ってきた土砂のために埋まってしまいました。
 大人たちが手でかき分けるようにして外へ出ることができたのですが、防空壕のすぐ近くに直径10mほどの穴があいていて、大人たちは一トン爆弾が落ちたといっていました。

 防空壕が全壊して生き埋めにならずに住んだのは、家長であった母屋の祖父の知恵でした。
 私たちの入っていた防空壕は、竹やぶの下に掘られていて、竹の根が入り組んでいたため天井の崩落を防ぐことができたのでした。
 爆弾であいた穴は、しばらくはそのままになっていて、雨が降ると水が溜まって池のようになっていました。
 池といえば、命からがら防空壕を這い出して最初に見た光景は、すぐ近くの池の水面がめらめらと燃えているものでした。爆撃はもう終わっていたのですが、焼夷弾の油に火がついたのでしょう、まるで地獄の池を見ているようで妙に怖くて足がすくみました。

           
               炎上する当時の国宝名古屋城

 それよりももっと大変なことがありました。
 私と母が住んでいた掘っ立て小屋にやはり近くに落ちた焼夷弾の油が飛び散ったのか、その一角から火の手が上がっているのです。かなり離れた母屋の井戸から水を汲んでくる暇はありません。大人たちは近くの肥溜めの下肥を肥柄杓でぶっかけて火を消しました。
 お陰で庇と板張りの一部を焼いただけで助かったのですが、その後の臭いこと臭いこと。大人たちは、「これがほんとのヤケ糞だ」と冗談を言い合ったのでした。こんな時にもそうしたユーモアが出るのですね。それはある種の救いでもあったのでしょう。

 しかし、私と母は大変です。その臭いところ以外に住むところはないのですから。暇を見ては母屋の井戸から水を汲んできてかけて洗い流すのですが、そう簡単には匂いは消えません。かなりの間その匂いは残っていて、何気ない折に不意にプンと鼻孔を襲うのでした。

 幸い、空襲はその一回きりでしたが、日本の各都市への空爆は続いていて、その都度空襲警報のサイレンが鳴り、ほとんど毎夜のように防空壕に駆け込むのでした。
 そんな時、広島に新型の特殊爆弾が落とされたというニュースが伝わって来ました。
 大人たちの間で論争が起こったのを覚えています。防空壕のある竹やぶは少し離れていたのですが、そこまで逃げる際、新型の光線爆弾の被害を避けるため白いものをまとったほうがいいという人と、そんな白いものを身に着けていたら敵に発見されやすいからダメだという人との間の論争です。
 今から考えると、幼稚な論争かもしれませんが、当時としては文字通り命がけの論争なのでした。

          
               空爆後敗戦直前の名古屋中心部

 特殊爆弾はその後、長崎へ落とされ、それから一週間ほどで敗戦を迎えることになるのですが、そうした原爆をも含めた空爆により失われた人命や家屋は実におびただしい数にのぼります。
 B29の発進基地になるサイパンなど南方の島々が米軍の手に落ち、日本の上空の制空権が完全になくなり、まるっきり素っ裸で空爆にさらされるようになった段階で、なぜ降伏しなかったのかと今なお恨めしく思います。
 
 そうすれば、原爆を始めとする空爆で何十万という市民を死なすこともなく、また、あの悲惨な沖縄の地上戦も防ぐことができたのでした。その間に、「国体」をめぐる駆け引きがあったことを歴史は教えてくれます。しかし、死屍累々たる状況下で護持すべき「国体」とは一体なんでしょうか。
 ナチスの生物学的純血主義という抽象的な観念が何百万という人命を奪ったように、この国でも「国体の護持」という抽象物のために多くの人命が失われたのでした。

コメント (10)
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