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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の履歴書(四)国民学校の思い出

2013-02-08 09:39:17 | 想い出を掘り起こす
 以下の写真は内容とは関係ありません。

 疎開地で国民学校へ入学しました。
 木造平屋建ての校舎で、一学年一クラスでした。
 あとで同窓会名簿を見て知ったのですが、私の学年には実に69人の名前が記録されています。
 しかし、これらの人数が同時にいたわけではありません。
 元々の住民のところへ私のような疎開者が加わりました。しかし、その疎開者たちは戦争が終わると都市へ帰ってゆきました。代わりに、満州を始めとする大陸や朝鮮半島や台湾からの引揚者が加わりました。
 引揚者の子たちはどこか垢抜けていました。きっと旧植民地で、支配層としていい暮らしをしていたせいでしょう。それらの子たちもしばらくしたら都会へと移ってっゆきました。
 したがって、名簿上でのこの人数の多さは、敗戦を挟んだ混乱の時代を象徴しているのです。
 
         

 しかし、そうした事情を了解したのは後々のことですから、その前の話をしなければなりません。
 国民学校というのはその名の通り、皇国の民を作るための学校でしたから、教育勅語の精神に乗っ取り、ひたすら忠臣愛国に満ち溢れた、今から考えるとオカルト的とも思える教育がなされていました。
 教科のすべてはいかに皇国の民となり、陛下の赤子として国に尽くすかに絞られていました。

 これは前にも書きましたが、どの学校にも忠魂碑と奉安殿というものがあり、前者はその名の通り、国のために命を落とした忠義の士を讃えるものでした。
 後者はいろいろデザインはあったようですが方形の廟で、そこには陛下の御真影(写真)が収められていました。
 
         

 もちろん普段は厳重に閉じられていましたが、何かの儀式の折にはご開帳となりました。
 しかし、その中をまじまじと見ることは許されませんでした。校庭に整列していると、たいていは教頭が白い手ぶくろでうやうやしくその扉を開くのですが、その途端に「最敬礼」(最も丁寧な敬礼で手の先をひざまで下げ、からだを深く前方に曲げる)の声がかかるのでなかを確かめることはできません。
 どこの文明でも、なぜか最も尊いとされるものには直に触れたり見たりすることは許されないようなのですね。いわゆる御簾越しにというわけです。

 でも、子供にとっては興味があります。見るなといわれればなおさらです。最敬礼をさぼってそーっと頭をもたげ中を確かめようとします。すると「コラッ」と咎められ、時にはげんこつが降ってきます。
 そうした尊い場所ですから、その前を通るときはちゃんと最敬礼をすることが義務付けられていました。ある時私は、校門の外で私を呼ぶ友だちに応えて、最敬礼をしないで通り過ぎたところを教師に見つかり、ビンタをつられました。どういうわけかビンタは「つる」といいますね。なぜなのでしょうか。

            

 わずか6歳の子供相手ですから力いっぱいではなかったのでしょうが、殴られたことは事実です。
今騒がれているいわゆる体罰ですね。
 しかし、その当時は上は軍隊から下は学校まで、これはアタリマエのことでした。ですから誰も問題にせず、したがって「体罰」とか「愛の鞭」なんて言葉すらなかったのではないかと思います。
 ですから、殴られた方にも、それが不当なことだという意識はこれっぽちもありませんでした。
 その折の私にしても、ああ、私は銃後の少国民としてなんという不敬を犯したのだろうかと深く反省したのでした。

         

 昨今の体罰問題を見ていると、もちろんそれはあってはならないことなのですが、反面、それがこうして公に批判されるという世の中はまだマシだという思いがどこかにあります。ですが反面、例えば訴え出た女子柔道の選手は堂々と名乗るべきだなどという主張に出会うと、ああ、この人たちは暴力の持っている根深さを全くわかっていないなぁと思います。
 堂々と名乗り出て訴えることができる環境下では、そんな陰湿な暴力は起こり得ないのです。監督と選手、教師と学童という絶対的な非対称のなかで、言ってみれば、暴力を振るう側は、絶対に反撃されないという構造を前提にしているのですから。

 話が逸れました。
 ようするにわが大日本帝国は、対外的にも、そして対内的にも、暴力や差別、陰湿ないじめ(非国民呼ばわり)によって成立していたのでした。

         
 
 しかし、私にとってはかなり鮮明な記憶として残っている戦前の国民学校ですが、そこでの実体験は四ヶ月にしかならなかったのです。その年の8月15日には、「玉音にわれ関せずと蝉しぐれ」という敗戦の勅語が国民の99.99%が初めて聞く神の声によって語られたからです。

 そしてその結果、この国民学校の体制はガラガラと崩れ落ちるのですが、それはまた、私の疎開生活をさらに数年引き伸ばすことにもなったのです。
 それについてはまた。





 

コメント (2)
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