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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「凧凧揚がれ!」 つながれた凧からの応援歌

2013-01-10 03:11:10 | 想い出を掘り起こす
 子どもたちの正月の遊びも変わったというか多様化したというか、むかしのようなものは室外、室内共にあまり見かけなくなった。

 私の場合、正月といえば屋外では凧揚げに夢中になっていた。
 とはいえ、凧を買ってもらえる身分ではなかった。
 疎開先の片田舎で、父が満州からシベリアへ送られたらしいという情報のみを信じ、その生死すらわからないままにひたすらその帰還を待ち受けていた事実上の母子家庭にとって、衣食住以外の出費はとても無理だった。

 しかし、凧を買わないのは私のうちだけではなかった。田舎の子はみんな器用なので、父親やじいさん譲りで凧の作り方を心得ていた。
 私も見よう見まねでそれらを習得した。

        
 
 作るといっても組み立てキットがあるわけではない。
 まず骨になる竹ひごを作らねばならない。
 田舎のことで竹はどこにでもあった。
 それを裂くようにして細くするのだが、幸い竹は私同様(?)真っ直ぐな性格をしているので、ちょっとコツを飲み込めば何とかなった。
 細くて軽いほうがいいのに決まっていたが、それほど繊細にする必要もなかった。
 私のいた地方では至ってスタンダードに、それらの竹ひごをTの字にしそれにXを組み合わせ、Tの字の水平の部分に糸を張って弓なりにし、それに紙を貼って出来上がりだった。
 
 当時は紙は貴重品で、新聞紙も回し読みをしたあと包装紙や落し紙に使っていたので、あてにはできなかった。
 落し紙にする場合には、皇室関係の記事や写真をもったいないからと婆さんが切り抜いてしまうので、いざ使おうとすると真ん中がポッカリと切り取られていたりした。
 厠は疎開先の母屋と共通で戸外にあって、私たちも利用させてもらっていた。
 婆さんの切り抜きは、みんなにとっても不評だったが、誰も表立っては苦情を言わなかった。
 
        

 今では捨てるのに困るほどの折込広告というものも、当時はなかった。
 文献によると、折込広告は大正時代から始まっていたようだが、戦中戦後には全く見られなくなっていた。
 しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、凧にはうってつけの紙があった。
 それは障子紙で、どこのうちにもあった。とりわけ正月は、年末に張り替えたものの余りがあって、それを使わせくれた。当時の障子紙は、今のように化繊混じりではない生粋の和紙であったから、今から考えれば、逆に贅沢な話だ。

 糊はメリケン粉を水で溶かして火にかけて作った。
 作りすぎると母に叱られた。
 「そんなにたくさん作ってどうするの。残りは食べなさい」などといわれた。
 実際のところ、メリケン粉は貴重な食材で、スイトンの材料であったり、祭りの時の手打ちうどんの材料でもあった。

 さて、予め糸で組み立てた骨組みに障子紙を貼り付け、足(二本、場合によっては長いのを一本)をつければ出来上がりである。
 しかし、凧の揚がりを左右するのは最後の糸つけだ。
 風を受けて揚がった姿を想定し、慎重に糸を付ける。T の字の両端とX の中央との三本をバランスを考えながら一点で固定する。どれかが弛んでいると、空中でくるくる回る原因となる。

        

 さて、こうして凧は出来上がるのだが、最後の難関が待っている。
 凧作りがうまくいって、高く揚がれば揚がるほどたくさんの糸が要るのだ。
 しかし、戦後の物資の不足している時代、子供の遊びに豊富な糸を提供してくれる親は少なかった。
 また、提供してくれるそれが細かったり粗悪な場合は、すぐプチプチ切れてしまう。
 これには困った。

 私の場合は一計を案じて、町の銀行のえらいさんだという金持ちの息子と取引をした。私が細く裂いた竹ひごを提供する代わりに、凧を上げられそうな丈夫な糸を貰うのだ。
 おかげで私の凧はよく揚がった。
 冬の畑の中を駆けまわったので、爺さんには散々怒られたが、凧が高く揚がったプライドに比べればそんなものなんのそのだった。
 澄んだ冬空に悠然と舞う私の凧は、世界を睥睨する神であり、それと糸でつながった私は神に最も近いその使徒であった。

        

 大人になり、長男が小学生の高学年になったころ、凧作りを伝授すべく昔ながらの方法でそれを作リ、前の空き地で揚げた。
 それは予想以上によく揚がった。
 当初このくらいはと予定していた糸の分量を越えてなお揚がり続けた。
 私の子供時代と違ったのは、物資がほぼ満たされていたことだ。
 子供に凧をもたせ(それほど安定して揚がっていたのだ)、私はうちに駆け込み、焼き豚などを作る際に使う糸を全て持ち出し、それらをつなぎ合わせた。
 凧はなおも揚がり続けた。
 長い辺で50センチぐらいのそれが、もはや切手ぐらいにしか見えなかった。

 しかし、何事にも限界はある。
 グイグイ引くような手応えが急になくなったと思ったら、凧はさらに遠くへと飛び始めた。糸が切れたのだ。
 おりからの風に乗って、凧はみるみるうちに視界から消え、ついにどこかへ行ってしまった。
 後から息子に聞いたら、遙か彼方、二キロ近く向うで見つかったらしい。

 この糸の切れた凧の思い出は、実はかつての正月の遊びと、それに最近、私が経験したことに関する複合的な思いとの合作である。
 ひとつは、年末の日記でも触れたモーレンカンプふゆこさんの句集、『風鈴白夜』の結びの句と関わるものである。
    
     糸の切れた風船白夜の今いずこ

        

 今一つは、昨秋、伊吹山へイヌワシを見に行った沖縄の女性の思い出である。
 この、旅の多い女性は、自分のことを「鉄砲玉」と表現したところ、それが活字になった折に、編集者によって一方的かつ無断で「無鉄砲者」と替えられてしまったと憤慨していた。
 彼女の旅は決して「無鉄砲」ではない。所定の場所へ行って所定の用事を済ませて帰ってくる「旅行」と差異化する意味で自分の旅をあえて「鉄砲玉」といったのだろう。
 そこには予定調和的なものではない思いが込められているのであって、決して単なる「無鉄砲」ではない。

 ふゆこさんの「糸の切れた風船」にしても、沖縄の彼女の「鉄砲玉」にしても、定住者には満たされない遊牧民的(ノマド的)志向があるように思う。
 それは、私のような農耕民族の末裔の、どうしようもない定住者にはいかんともし難いところではあるが、彼女たちノマドのくもりなき眼に写ったものを追体験することによって多少は、視野が開かれるのではないだろうか。
 私という凧は、高く揚がることもできず、また自ら糸を切って飛び立つこともできないのだから。
 
 シューマンの曲を聴きながら、飛び立つことがかなわず内面へと沈潜していった彼を思い目頭を熱くしている。とくに後期の曲にはその思いなくしては聴けないものが多い。ここ数日、毎日シューマンの、それも後期の作品を聴いている。
 

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「朝日歌壇」のドラマとミステリー

2013-01-08 03:46:16 | よしなしごと
 無趣味な私ですが、それでも週一で楽しみにしている新聞の欄があります。
 それは、「朝日」が毎週月曜日に一ページを使って載せる「朝日歌壇」と「朝日俳壇」です。とはいえ、私は一度も投稿したことがなく、ただ読むだけです。

 もう昨日になりましたが、7日は今年第一回の掲載日でした。
 そして同時に、昨年一年間の入選作の中から、4人の選者が各一首を選んだ「朝日歌壇賞」の発表でもありました(俳壇賞の方は来週だそうです)。

 それによれば以下の歌が選ばれたとのことです。

<高野公彦・選>
  空語木語鳥語微風語噴水語すべて爽やか今日より五月 
                  (新潟市 丸山 一)
<永田和宏・選>
  あれしきの被曝で何を騒ぐかと言ってはならぬ我は被爆者
                  (アメリカ 大竹幾久子)
<馬場あき子・選>
  一輪の青き薔薇咲く一通の内定通知子に届きたり
                  (ひたちなか市 猪狩直子)
<佐佐木幸綱・選>
  ママが差す日傘の影にぴょんと入りそのまま影絵見ながら歩く
                  (富山市 松田わこ)


         

 私がまず注目したのは、永田選の大竹さんの歌です。
 彼女はアメリカ在住ですが、文字通り被曝者です。
 
 この歌から想起するのは、原発推進派の中でもネット右翼に近い人たちが言う「放射脳(これは原発被害を気遣う人たちへの彼らの隠語的蔑称です)は反原発と騒ぐけれど、死者はひとりも出ていないではないか」という短絡した主張のことです。
 この大竹さんの歌はそれらに対する厳しい叱責の声とすらいえます。

 続いては、佐佐木選の「わこちゃん」の歌です。あえて「わこちゃん」といったのは彼女はまだ小学五年生だからです。この子と、そのお姉さんの梨子さん(中学生)とは、昨年の朝日歌壇を賑やかにした常連でした。
 その波及効果は、その他の主として少女の詠み手を輩出させる結果となり、朝日歌壇は一挙に華やいだのでした。
 なお、梨子さんは歌壇賞は取れませんでしたが、7日の佐佐木幸綱選では、選ばれて入選しています。以下は二人が互いに相手について詠んだ歌です。

 「リコちゃんは変わってしまった」妹が涙ぐむ話せないこと増えて  梨子
 捨てゼリフ残し飛び出すねえちゃんはけれどもドアを優しく閉める  わこ


        
   
 こうした短詩系のしかも、同好の投稿者の作品ですが、続けて読んでゆくといろいろなドラマに行き当たります。
 昨年でいえば、上にみた松田わこ、梨子姉妹の活躍でしたし、もっと前にはオランダ在住のモーレンカンプふゆこさんの活躍がありました。
 この人の歌や句は、やはりこの欄で知ったのですが、何年か前に直接お目にかかる機会があり、それ以来応援団の仲間に入れていただきました。
 彼女についての記事は、このブログの12月20日、並びに31日に書きました。
 
   http://">http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20121220   
   ">http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20121231

 アメリカの監獄に終身刑で収容されている郷隼人(ペンネーム)という人も常連でした。しかし、しばらく投稿が途絶えていたので心配していましたが、最近はまた復活したようで時々作品を目にします。
 罪状は殺人罪のようで、もう20年以上獄中にいるようです。
 繊細な歌を詠む人で、とてもそんな事件と関わりがあったとは思えないのですが、残念ながら事実のようです。人間にはいろいろなことがあるものですね。

   一瞬に人を殺めし罪の手とうた詠むペンを持つ手は同じ  郷隼人

         

 もう一人話題になったのはホームレス歌人の公田耕一(これもペンネーム)さんです。
 毎回のごとく入選するのですが、住所はなく「ホームレス」とあるのみです。賞金などが渡せないというので「朝日」が異例の呼びかけをしたのですが、そのままでした。
   
   柔らかい時計を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ
   パンのみで生きるにあらず配給のパンのみみにて一日生きる
   百均の赤いきつねと迷ひつつ月曜だけ買う朝日新聞


 最後の歌は、この冒頭で書いたように、月曜日に朝日歌壇が載るからです。
 ところでこの人、ほぼ10ヶ月の活躍の後、忽然と姿を消してしまいました。
 どうしたのかいぶかる声が高かったのですが、どうやら横浜にいるらしいとのことで、三山 喬というルポライターが丹念に取材をし、ほぼその正体を突き止めたようなのです。(『ホームレス歌人のいた冬』三山 喬 東海教育研究所・刊)

         

 それによると、彼の驚くべき経歴が明らかになったようです。
 彼は、元首相の菅直人氏などとともに、故・市川房枝の選挙運動で活動し(1974年)、それが縁で、結婚の仲人も菅氏がつとめたといいます。
 ところがその後、本人も選挙に出馬し落選、その時の資金の逼迫等で破産、そして離婚をして家を出、ホームレスになったというのです。
 投稿をやめたのは、ホームレスを卒業し、職を得たからだそうで、3・11後は、被災地に支援物資を送る仕事に就いているようです。

 ざっと見ただけで朝日歌壇にはこうしたドラマがあります。
 もちろん、一、二度見ただけではこうしたドラマは見えて来ません。
 だから毎週、月曜日を楽しみにしているのです。
 

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【やや長文】「日本を、取り戻す。」と「大国症候群」をめぐって

2013-01-06 02:36:27 | 社会評論
 標題は周知のように、昨年末の選挙で自民党の安倍氏が力説した選挙用のスローガンです。
 それが功を奏したのかどうか、自民党は圧勝しました。
 もっとも、競争相手が四分五裂していたせいで、自民党そのものの得票率は27%台と、ボロ負けした前回並だったそうです。民主党がそれだけだらしなかったのと、小選挙区制のなせる技なのでしょうが、それはさておくとして、このスローガンの意味を考えてみたいと思うのです。

 「日本を、取り戻す。」(句読点はその折のママです)が含意するものは、奪われたり失われたりしたものを取り戻すということなのですが、したがって誰が奪い、どう失ったのか、そしてそれを取り戻すということはどういうことなのかが問題になろうかと思います。

 まず直接的には、民主党に奪われた政権を奪回するということだったのでしょうね。
 むしろ選挙中はほとんどの自民党の候補者はそれで頭がいっぱいで、「日本」のことなどまったく考える暇がなかったのではないでしょうか。

 で、このレベルでは「取り戻」せたのですが、さて選挙に勝ったうえで今度こそ「政権」ではなく「日本」を取り戻す段取りに至ったと思われます。
 どんな日本でしょうか。ひとつの資料としては、前回、安倍政権が誕生した時のスローガン、「美しい国、日本」(これも句読点など当時のママ)が考えられます。その折、無念のリタイアーをした安倍氏にとってはその継続はやはり悲願といっていいでしょう。

       

 ではここで考えられている「美しい国、日本」とはどんな国なのでしょう。
 それらを安倍氏自身の言葉で聞くために、当時の「政権の基本的構想」からそのまま引用してみます。
 
 文化・伝統・自然・歴史を大切にする国
 ・新たな時代を切り開く日本に相応しい憲法の制定
 ・開かれた保守主義
 ・歴史遺産や景観、伝統文化等を大切にする
 ・家族の価値や地域のあたたかさの再生


 これにさらに、これらを詳細化した説明が続くのですが、これらを可能にするものとして、「イノベーション」という言葉が繰り返されているのが目立ちます。
 この言葉は技術革新などに使われる他、新機軸、革新、などといった意味にも使われます。「革新」といえば、安倍氏の祖父、故・岸信介氏が、1937年ごろから戦時統制経済を主導し、後に国家総動員法を制定したりして、戦時を支配したという、いわゆる「革新官僚」の主要メンバーであったことが思い出されます。
 まさか、隔世遺伝ではないでしょうが。

 この憲法改正を初頭に掲げる「美しい国、日本」のイメージは、その詳論などを読み合わせてゆくと、ようするに、幻想の共同体としての日本の強化、そしてその国家意志への家族的な統合が見えてきます。
 美しいこれらのお題目をあえて「幻想」というのは、競争社会のなかでますます格差が著しくなり、さらにそれに追い打ちをかけるような福祉の後退(弱者の切り捨て)が声高に語られているとき、そうした家族的な結合にはほとんどリアリティがないからです。いってみれば、抱擁力を欠いた裸の競争社会のなかで、国家への統合のみが語られているのです。
 したがって、こうした民族や国家の価値肥大に依拠した呼びかけは、現実の私達の生活にはなじまない、どこか超越的なところからの掛け声のように聞こえるのです。

 そうしたリアリティのないままにそれを強行しようとすれば、それらは法改正を伴う力による突破しかありません。その一環ともいえる「教育基本法」の改正は既に安倍氏の第一次内閣の時に行われています。
 次は憲法改正を柱とする諸規定の改正という手順でしょう。

 これらを総合してみると、この、「日本を、取り戻す。」ないしは「美しい国、日本」というスローガンの中には何か焦燥感のようなものがあるように思うのです。
 そこには「取り戻す」べき一つの目標としての「大国」であった日本があるのではないでしょうか。ようするに「大国としての日本」こそ取り戻す価値のある「美しい国」のようなのです。
 とりわけこの「取り戻す」という大国意識は、2010年にGDP(国内総生産)で中国に追い越されて以来(ちなみに2011年は第三位で中国の約80%)ある種のルサンチマンを伴って激しくなっているのではないでしょうか。

 たしかにGDPは国の活力の一つの指標かも知れませんが、全く当然のことながら、それとその国に住んでいる人々の幸福度は全く比例しません。ちなみに、日本の一人あたりのGDPは2011年で世界の17番目です。
 配分の問題や文化度の問題、医療や家族関係など、その指標では測れないものを重視すべきだというのは新保守主義者、新自由主義者のフランスの前サルコジ大統領でも言っているところです(フランスのGDPは第5位)。

 もちろん安倍氏以下の自民党の諸氏が、GDPのみにこだわっているわけではないでしょうが、大国意識は厳然として見え隠れしますし、それを維持すべきだと思っているフシが多分にあります。

 振り返ってみれば、日本が大国を謳歌した時期が二度ほどありました。
 150年前、まだ日本はヨーロッパなどでも庶民の間でははほとんどその存在さえ知られていないほどの小国に過ぎませんでした。
 当時の列強の関心も、「眠れる獅子」といわれた清(中国)にあり、日本はその周辺国に過ぎませんでした。また、列強のパワー・オブ・バランスのなかで日本がニュートラルな状態に置かれたことも幸いしたようです。
 その間に日本は急速な富国強兵策を実施します。
 そして主に、朝鮮半島の利権をめぐって、落ち目の清国や帝政ロシアとの部分的戦争に勝利します。また、第一次世界大戦においても主戦場であるヨーロッパへは(船団護衛以外には)参加することなく、戦勝国となることができました。

 この辺りから日本の大国意識は急速に芽生えたと思います。それは開国から50年足らずのことで、それ以来、日本を盟主とした大東亜の建設という夢に向かってまっしぐらといっていいでしょう。朝鮮半島や台湾の併合、中国への侵略、満州国の建設、そしてついには米英などと帝国主義的進出を賭けて全面的な戦端を開くに至ります。
 これが第一回目の大国日本の姿でした。

          

 その結果をあえて語ることはいでしょう。
 廃墟のなかで大国の夢を失った日本は元の木阿弥の小国へと戻ったのでした。

 しかし、ここでも日本はツイていました。朝鮮戦争の勃発がそれでした。
 連合国側の中枢アメリカは、対共産圏戦略での補給基地として日本を利用すべく、戦後厳しく規制していたその政治、経済、軍備の制限を解き放ったのでした。
 それにより、日本経済は一挙に活気づきました。いわゆる特需景気や「金偏」景気がそれで、子供の私たちですら、くず鉄を集めてしかるべき業者のところへ持って行くとキャラメルぐらいは買えました。夜、いきなり停電になるのでびっくりしたら、何十メートルの間の電線がごっそり盗まれていたという乱暴な話もこの頃のことです。金属はすべてお金になったのです。
 
 海ひとつ越えたところで何万という人たちが殺し殺されしているなかで、日本のみはウハウハしていたののが実状でした。
 こうした朝鮮半島で流された血をすするようにして日本経済は立ち直りの契機を掴みました。そして60年代、70年代の高度成長期を経て、80年代のジャパン・アズ・ナンバーワンの時代を迎えたのでした。日本的経営こそが資本主義の鏡だと豪語し、一億総中流意識が蔓延していました。

 富裕層は、マンハッタンでアメリカのシンボルとも言うべきビル群を買いあさり、アメリカ人の反感をもかったのでした。今、中国の富裕層が日本の不動産を買っていると不安を募らせる向きがありますが、それと同じことを80年代には日本もしていたのです。

 一方、中流といわれた人たちははじめはへっぴり腰で、そして次第に大胆にマネーゲームにのめり込んでゆきました。
 その頃、民営化したNTTの株が100万円前後で売りだされたのですが、それが瞬く間に300万円を越えたのです。私は、さして裕福でもない人が預金をはたくようにしてそれを買ったのを知っています。その人は老後のためにとそれを求めたのでしたが、それを買わなかった方がはるかに豊かな老後が送れたものと思います。
 これが日本が大国を実感した二度目だろうと思います。

 で、その二回の大国というのは何をもたらしたのでしょうか。
 一度目のそれは、日本人のみで300万人の死者を出す(近隣諸国を含めると2,000万人)という結果を招くものでした。
 そして二度目のそれは、バブルの崩壊とともに多くの倒産と失業者を生み出し、中流意識に駆られた人たちは株式投資などの所詮は素人のマネーゲームの結果、溜め込んだ金をごっそり奪われることとなりました。
 そしてそこから、日本経済の立て直しということで従来の護送船団方式を改めることとなり、その結果としての新自由主義による規制緩和が進み、製造業での非正規労働者使用が肥大化し、今日の不安定雇用と格差の拡大が始まったといえます。

 これらが、日本が内外ともに大国と認められ、自らも「一等国」と自負していた時代の終焉の姿です。
 
 この長い文章の書き始めは、安倍氏の「日本を、取り戻す。」というスローガンの日本がどの時代のものなのか、それが以前に政権の座に付いていた折の「美しい国、日本」の継承であるとすれば、その美しさはどのようなものであるかの探求でした。
 そして日本が、自他ともに大国としてある意味での誇りをもっていた時代を1900年代の前半と後半の2回に分けてざっと見てきました。
 「取り戻す」という以上、過去への遡行を意味するわけですが、常識的にいって江戸時代以前を除外して考えれば、安倍氏の「美しい、日本」はおそらくこの二回の大国経験のないまぜになったものではないかと思われます。

 しかし、この道は当時においても険しかったし、今はそれに増して厳しいのです。
 日本が最初に大国になった折は、近隣諸国は未だ近代化の途上にあり、日本の軍事力を背景とした政治的経済的支配に不本意ながら屈服を余儀なくされました。
 ところが、今は違います。日本が二回目の大国意識にあぐらをかいている時期から、近隣諸国は急速に力をつけてきました。中国が2010年の段階で日本のGDPを凌駕したことは既に述べたとおりです。お隣の韓国もどんどん力をつけてきて、家電産業では日本のそれを世界市場から駆逐する勢いです。

       
 
 安倍氏の政権復帰に狂喜したといういわゆるネット右翼と云われる人たちの言説も、そうした背景のなかでつとに嫌韓嫌中の度合いを増しています。そこには相変わらずの大国意識、一等国意識と、それが今や脅かされつつある、いや既に追い越されている面もあるというルサンチマンをも含んで、あらゆる論理性をかなぐり捨てた罵倒の連鎖反応のような観を呈しています。
 80年代以降に自己形成をした彼らは、私のいう日本の一回目の「大国」が実現する際、そこにどのような暗黒面があったのかを完全に捨象しています。無知であったり、「日本がそんなことをするはずがない」というイデオロギー的な前提に信仰にも似た帰依を表明しているのです。
 そして二回目もまた、日本人の勤勉さにのみそれを還元し、国際情勢の機微を理解してはいません。それらはあたかも日本民族に内在している力ゆえだと信じているようなのです。

 既に述べたように、世界は変わってしまったのです。日本の近隣諸国は、ネット右翼諸氏の罵倒や中傷にもかかわらず、確実に力をつけています(それらの国々を手放しで礼賛しようとするわけではありません。例えば中国では想像を絶する格差が存在し、各種少数民族との間の矛盾ももはや容易に押さえ込めない次元にまで至っていますし、民主的人権派への弾圧も続いています)。中韓の後を追うようにしてインドや東南アジア諸国がその力をつけつつあります。太平洋の向こう側では、ブラジルやメキシコが脱後進化を図りつつあります。

 こうした中で、「美しい、日本」へのノスタルジックな回帰は何の意味ももちません。むしろ、伝統的なそれらとは切れた、「真のイノベーション」こそが必要なのです。
 安倍氏については、その思想的な面などについての厳しい批判があります。それらの批判の幾分かは私も共有しています。
 しかし、一国の総理になった以上、それらの思想信条は個人的なものとして棚上げし、つらつら国際情勢を鑑みた上での効率的実効的な政治を執り行ってほしいものだと思います。
 もし、安倍氏が選挙前などに気が許せる人たちに語った思想信条をそのまま具体化したら、戦争への危惧が現実的になりかねません。
 どうかそれらは棚上げにして、現実を冷静に見て諸施策を考慮してほしいものだと思います。それをもって、たとえあなたの思想信条のゆらぎを批判する連中がいたとしても、「政治というものはプラグマティックな実効性を重んじるもので、私は自分の思想信条よりも、国民の安心安全を重視する」と胸を張って答えて下さい。

 途中でも触れましたが、大国であることとその国民の幸せは比例しません。
 アメリカはその大国ゆえに、多くの戦争に関わり、多くの若者を戦場に送り、その何人かは帰らぬままです。
 1945年以来、約70年にわたって戦争をしなかった(部分的加担はあったものの)この国の伝統を守り続けることこそが、「美しい国、日本」の誇りであり、そのためにはとりざたされている「国防軍」への昇格(?)などという危険な試みが放棄されてしかるべきだと思っています。
 

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私たちの償いとは? 映画『サクリファイス』を観る

2013-01-03 02:20:09 | 映画評論
 一昨年の秋、地デジ移行の折に部屋の受像機は捨てた。そのまま半年ぐらいしてから新しいものを買ったが、普通の番組はほとんど観ないで、映画やクラシックのライブを録画しておいた。
 しかし、それらも殆ど観ないままだったのだが、この正月、急に思い立って映画を観た。だいたい映画は劇場で観るのが普通なので、録りっぱなしにして放おっておいたものだ。

             

 アンドレイ・タルコフスキーの遺作『サクリファイス』がそれである。
 この映画、初見ではない。1980年代後半、日本で公開された際に観ている。
 そのストーリーも、印象的なシーンも覚えているのだが、そのディティールについての記憶は漠然としている。早い話が、その再発見の目論見が今回の鑑賞といえる。

 古い映画だからある程度のネタバレは容赦していただくとして、ざっくばらんにいってしまえば喉を病んで口が利けなかった少年が、言葉を発するに至るまでのたった一日の物語である。
 とはいえ、この少年が主人公ではなく、しかもその一日の間に、世界は一度破滅し、そして再び救済されているのであるが、それを知るのは主人公とその名が寓意するマリアという名の召使のみである。
 
 このくだりは、冒頭の郵便配達がいきなり展開するニーチェの「永遠回帰」の哲学論議に示唆されている。曰く「我々は何度も生まれ変わっているのだが、それに気づくこともない」というセリフがそれである。
 この郵便配達、この映画では重要な狂言回しの役割を果たしているし、他にも「無理をしてこその贈り物(=サクリファイス)だ」などという思わせぶりなセリフもある。
 破滅からの回復のための希望はマリアとの出会いでしかないと指摘するのも彼だ。

 冒頭近くの主人公の独白、「われわれの文明はもはや完全にバランスを失ってしまっている」も、この映画の内容を示唆している。

       

 上に、この映画において世界は一度破滅すると書いた。
 その破滅とは核戦争の勃発である。
 この映画の作られた80年代の中頃というのは東西冷戦の緊張も幾分和らいでいたとはいえ、なおかつ核戦争の危機は現実のものとしてあった。そしてそれは、現代文明が行き着く危機そのものとしてあったともいえる。

 その勃発に直面した主人公は、無神論を標榜していたにもかかわらず、己の全てをなげうって神と対決しようとする。それがまさに「サクリファイス」であり、捧げられる生け贄は彼自身である。
 結果として、マリアを通じて神は世界の破滅をとどめてくれたかのように見える。
 であれば、彼のサクリファイスは約束通り彼のすべてを差し出すことでなければならない。
 それを執り行う彼の儀式は壮絶である。

 ラストは冒頭と同じ、主人公と口の利けない少年が植えた日本(二本ではない)の木の傍らである。少年は父との約束通り木に水をやったあと、やっと利けるようになった口でつぶやく。「”始めに言葉ありき” なぜなのパパ?」と。

       

 この一本の木は、一昨年来、繰り返し見せつけられてきた陸前高田の「奇跡の一本松」を想起させる。それは、あの大災害にも耐えた希望のシンボルだという。
 この映画でも、この一本の木は、それに水をやる少年ともども、希望のシンボルであるのかも知れない。しかし、それが希望たりうるためには、やはり、多くのサクリファイスが先行していることを知らねばならないのだろう。

 冷戦体制が終わった今、核戦争の危機は遠のいたかに見える。しかし地球上には人類を数十回殺し尽くせる核兵器がなおかつ存在していることを考えるとき、それは過去の話では決してない。
 そして、それが兵器ではなくとも、原発という名で「平和利用」や「安全神話」の掛け声のもと、多くのサクリファイスを生み出しながら存続し、あの事故を受けて、やっとそれへの反省が始まったかに見えながら、逆ベクトルへの動きが強化されつつあることに注意を払わずにはいられない。

 サクリファイスは、ある人々の死傷や犠牲にとどまらず、私たち人類の変質ないしは劣化というかたちで実現されつつあるのかもしれないのだ。

 冒頭とラストの屋外のシーンの絵は印象的である。主人公の不安を表すシーンの草のゆらめきも美しい。室内シーンは主人公がは舞台俳優という設定を受けてであろうか、幾分演劇的な演出である。
 冒頭とラストには、バッハの『マタイ受難曲』からのアリアが、そして中途には日本の尺八の演奏が用いられている。


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「正月」と「お正月さん」、そして艶笑噺など

2013-01-01 16:06:39 | よしなしごと
 私の子供の頃は正月はただの年の区切りではなくて、ある種、人格(神格?)を持った神様のようであった。
 だからそれは「お正月さん」と敬称をつけて呼ばれたりしていた。
 最近はあまり聞かないが、「お正月さんござった」というわらべ唄もあって、この出だしは一緒でも、そのあとは地方によっていろいろバリエーションがあるようで、私の住んでいた疎開地の西濃地方では「味噌舐めてござった」と続くのだが、なぜお正月さんが味噌を舐めるのかは今もってわからない。

 だから、年末になると、「悪い子のところへはお正月さんは来ませんよ」と脅されたりもした。ちょうど、いまの子が、「悪い子のところへはサンタさんが来ませんよ」といわれるようなものだが、私の子供の頃は一般家庭ではクリスマスなどという風習はなかったから、二度脅されることがなかったのは幸せだった。

       
      今年のおせち これに数の子、鮭マリネー、ローストビーフですべて

 で、お正月さんというのはちゃんと来てくれたのである。
 元旦の朝、目覚めると、枕元には新しい下着が一式と、やはり新しいわら草履や下駄が置かれていて、これがお正月さんが来た証拠であった。
 わら草履や下駄というのは、疎開地の田舎では運動靴というかズック靴は運動会か遠足の時で、普通はわら草履か下駄で過ごしたからである。時としては、遠足の時ですら、わら草履で、壊れるといけないので予備のものを腰にぶら下げて行ったりした。

 さて、枕元に置かれたものたちは、クリスマスプレゼントとは違って、それらが全て新しいものであることに意味があった。ようするに新しいもの=正月で、衣服などが多少傷んでいても、正月まで待って新しいものに替えるという風習があった。
 新しいもの、いいものは正月という節目を彩るものだったのであり、それをもたらすのがお正月さんだったからありがたかったともいえる。

 これは何もこどもたちに限った風習ではなく、大人たちの間でもそうだった。
 例えばこんな艶笑噺もあった。

 若い男女がお互いに気が合って結ばれることになった。
 めでたく式も済んだのだが、一向に婿殿が床入する様子がない。
 今夜こそはと花嫁は待つのだがやはりそんな夜が続くのだった。
 さては今でいう「草食系」かとたまりかねた花嫁は仲人を訪れた。
 「あのう、いまだにあれがないのですが・・・」
 「あれってなんだい?」
 「それがそのう・・・」
 というようなやり取りがあって、やっとその経緯を聞き出した仲人、婿殿を呼び寄せて、いったいどうしたことかを問い詰めた。
 それに対して、婿殿の答えは以下のようであったという。
 「へえ、あんまり良さそうなのでお正月までとっておこうと思いまして」

 ことほどさようにお正月さんはありがたいものだったのである。

       
                 近くの鎮守様で初詣

 以下は今年の私の徘徊はじめである。
 正月になり、0時00分とともに家を出て、近所の鎮守様に出かけた。
 バス通りを横切り両側が田んぼの道までさしかかると、複数の寺で撞く除夜の鐘が遠近高低、さまざまに聞こえてきて雰囲気も上々であった。
 小さな神社ではあるが、お役周りの人たちが太い丸太の薪を用意したり、接待の用意をしていた。初詣を済ますと、紙コップのお神酒と、スルメが振舞われ、薪にあたりながら知らない者同士ではあったが「おめでとうの」挨拶を交わした。

       
                ゴウゴウと燃え盛る薪

 そうこうするうちにけっこう人数が増えて、私が帰る頃には30人ほどが境内にいただろうか。
 帰り道ではもう鐘の音は止んでいた。
 どうやら、今年の「お正月さん」はしかるべく落ち着いたようであった。

コメント (1)
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お年賀と面白い出会い。

2013-01-01 04:05:37 | よしなしごと
       
 

 おめでとうございます。
 本年もよろしくお願い致します。

 ところで、年末の12月27日、31日に掲載した『国語教科書の思想』『国語教科書の中の「日本」』(ちくま新書)の感想文めいたものに対して、著者の石原千秋氏から丁重なコメントをいただきました。
 もちろん、これまでに何の関係もなく存じ上げなかった方です。
 おそらく拙文が、氏の検索に引っかかったのでしょう。

 情報社会が利便性と怖さを共有していることはつとに語られることですが、この場合には思わぬ出会いをもたらしてくれたというべきでしょう。
 それにしても、拙文の後半はいわでもがなの批判めいたことも書いていて、そこへの著者の登場ですから、アララと驚いた次第です。
 まあ、しかし、著者の思うところは一応捉えたつもりですから、寛大に応答していただいたのだと思います。
 いずれにしても、新年早々、面白い出会いでした。

 氏との応答は、12月31日付けのコメント欄にありますので、興味のある方はどうぞ。

 
コメント (2)
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