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「ゆとり教育」、「ゆとり世代」への「無批判的」批判について

2013-01-16 02:52:50 | よしなしごと
 以下は、あるSNSで友人と交わしたメッセージに若干の加筆、編集をしたものです。
 テーマは、「ゆとり教育」、「ゆとり世代」への批判的風潮に関してです。

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 ゆとり教育というのが何であるのか、いったい、いつからいつまでをいうのかもあまりはっきりしていませんね。そして、それがもたらした影響も。
 それらがはっきりしないままになんとなく「ゆとり教育」批判が一般化し、さらには、「ゆとり世代」というように曖昧に一般化されることによって余計それへの批判も漠然としているのが現状のようです。
 それらが、いつの時代にでもある「今時の若い連中は」という世代批判とオーバーラップしているのは明らかですね。

        
 
 とはいえ、後述するようにゆとり教育はやはりその目指すところという意味では失敗だったのではとも思っています。

 ゆとり教育の発端は70年代後半から80年代のはじめ、当時の文部省と教職員組合が珍しく合意してはじめられたものですが、それらがカリキュラムに反映されたのは1900年代末ぐらいからで、その批判が公になり、見直しがいわれはじめたのが今の前の第一次安倍内閣の2008年頃のことです。したがって、その見直し作業は文科省などで行われているものの、実はまだ、そのカリキュラムなどは基本的にはいまも続行中なのだそうです(このへんは不詳です)。

        

 なぜゆとり教育がいわれ始めたのかは、高度成長期の詰め込み教育がいびつな人格を生み出してきたのではないか(公害への無反省、無関心など)という指摘と、教職現場の負担軽減の問題、それに加えて、当時の中曽根内閣が進めてきた民営化路線(国鉄→JR 電電公社→NTTなど)の一環としての公教育の民営化構想などが複雑に絡んでいたといわれています。

 ゆとり教育の積極的な面は、詰め込みから脱して「自分で考える」教育ということでした。しかし、結論からいって、既に述べたように、これはうまくゆかなかったと思います。
 確かに土曜休校など生徒にはゆとりが与えられたのですが、「考える教育」を実践する教師の方にはそれを実践するだけの「ゆとり」が与えられなかったといわれています。結局のところ、「ゆとり」が空白に終わり、その間隙を「学習塾」が埋めたのでした。

        

 よくゆとり教育が学力の低下を招いたといいますが、それを詳しく見ると、ちょっと様相が違ってきます。
 その基準としていわれる国際的な学力テスト(PISA)での順位の低下ですが、これを詳しく見ると、いわゆる暗記科目など(数学的リテラシー、科学的リテラシー)ではさほど低下していないのですが、どこで低下しているかというと、「読解力」を含む記述問題において著しいのです(それぞれ2009年には若干の回復傾向がみられます)。
 ようするに習ったことを復唱はできるが、それをベースに応用問題を解読し、それに対する適切な記述をすることができないのです。日本の生徒の場合、記述内容が間違っていたり、さらには無回答が相当数あるといわれています。

 この読解・記述問題で他の国々との差が著しいということは、いってみれば与えられた問題を自分で考えることができない、したがって書けないということです。ようするに、「ゆとり教育」の目指すところ、「考える教育」が実現できていないわけです。
 これらの結果を詳しくみないで、いわゆる文教族といわれる国会議員などから「読み書きソロバン」の強化がいわれたりしますが、これは明らかに逆効果と思われます。

        

 一方でとり上げられているのは、「ゆとり世代」と呼称される人たちの学力というより生活態度のような問題だと思われますが、それらは、「ゆとり教育」とはほとんど関係がないと思います。
 それらについては、親の世代の影響、社会全体の変化の影響といった「教室外」での問題のほうがはるかに大きいと思います。

 上に述べた国際的な学力テストで、日本を激しく追い上げ、ある部門では凌駕さえしているインド、その近代化や高度産業社会への参入などが爆発的に進むこのインドで、女性に対する性的凶悪犯罪が激増していると伝えられるのも、学力の「詰め込み」か「ゆとり」かではない別の要因、いってみればその地域独自の社会的な諸関係によって決定されるものではないかと思われます。

        

 ゆとり教育は、「自分で考える」という目標では失敗しましたが、それを詰め込みに直したら、あるいは極端にいって大阪の市立高校のように体罰をもって「調教」したらいいものではないと思います。
 教育も含めた広い意味での情報の供給とその受容の問題として考えるべきでしょう。
 もちろんそのための具体的方策を持っているわけではありません。
 ただ、「今の若い子は」という批判はできるだけギリギリまでいうことなく、むしろそういう状況を作ってきた私たち先行する世代の問題として考えてゆきたいとは思います。
 しかし、世代間の問題、その間のさまざまな面での継承と反発という問題というのは難しいですね。
 

コメント (2)
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