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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の黒い履歴書(その一) 1938年

2013-01-25 03:36:29 | 想い出を掘り起こす
 1938年に生まれました。
 なぜこの年に生まれたのかはもちろん自分で選択したのではないからわからりません。しかし、あとから調べて分かったのですが、私は確かに国家の要請を受けて生まれてきたのです。というのは、この年に「国家総動員法」が成立しているのです。
 ようするに、私はこの法にしたがい動員されて生まれてきたのです。戦時体制の申し子ですね。だから幼い頃は熱烈な愛国幼年にして軍国幼年でした。

 私の小さな胸を痛めたのは、いずれにしろ天皇陛下のためにこの身を捧げて死ぬのですから(そう教え諭されていました)、それではどの軍に入って戦うかでした。
 わが大日本帝国の軍隊は、陸軍と海軍にわかれていて、そのどちらかを選ばねばならなかったのです。ちなみに、空軍というのはなく、海軍航空隊と陸軍航空隊があるのみでした。

          

 絵本で見る海軍さんはカッコ良かったですね。紺碧の海原に白い制服、ほんとうに絵になっていました。しかし、海なし県の岐阜ではそれらを実際に見たことはなかったのです。
 実際に見たのは、ときおり家の前を通りかかる陸軍将校の騎乗姿で、軍刀を佩(は)いたその姿もまた素晴らしいものでした。
 ですから、幼い胸は千々に乱れたのです。
 まあ、はっきりいって、軍隊というのが殺したり殺されたりするところだということがリアルには認識できなくて観念的な対象でしかなかったのでしょうね。

 しかし、これは私の幼さばかりではありません。戦闘に伴うそうした悲惨さは、英雄譚や戦友物語として美化され、実像は報道されていませんでした。
 私の敬愛する川柳作家・鶴彬は「屍のゐないニュース映画で勇ましい」という句を作っています(1937年)。ことほどさように、兵隊や家族にまつわる悲劇は、そして日本軍の銃口の先にいる異国の人たちに関する悲劇は隠蔽され、美しい聖戦の色彩が施されていたのでした。

 上に見た鶴彬の、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」とリアルに詠んだ句が治安維持法違反だとして検挙され、若干29歳で獄死したのがまさに私がこの世に動員された1938年のことでした。

          

 これが私の黒い履歴の始まりですが、まだ幼年期のことです。
 この続きはまた気が向いたら書きます。
 だいたい、回想記など書き始めたら先が短いと決まっているのですが、あえて書き始めた次第です。
 もちろんこれは、私が実感してきたものとは随分違う、最近の勇ましい歴史認識へのささやかな応答でもあります。


トリビア
 上に触れた鶴彬は、その5年前に特高警察の拷問により虐殺された小林多喜二と辿った道筋が似ている(両者ともに29歳で死亡)ということで、「川柳界の小林多喜二」といわれています。そして、なんと鶴彬の本名は喜多 一二(きた かつじ)なのです。
 ところで、2008年から09年にかけての『蟹工船』ブームっていったいなんだったのでしょうね。やはり、なんでもファッション、なんでも商品なんでしょうかね。


コメント (4)
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