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私たちの償いとは? 映画『サクリファイス』を観る

2013-01-03 02:20:09 | 映画評論
 一昨年の秋、地デジ移行の折に部屋の受像機は捨てた。そのまま半年ぐらいしてから新しいものを買ったが、普通の番組はほとんど観ないで、映画やクラシックのライブを録画しておいた。
 しかし、それらも殆ど観ないままだったのだが、この正月、急に思い立って映画を観た。だいたい映画は劇場で観るのが普通なので、録りっぱなしにして放おっておいたものだ。

             

 アンドレイ・タルコフスキーの遺作『サクリファイス』がそれである。
 この映画、初見ではない。1980年代後半、日本で公開された際に観ている。
 そのストーリーも、印象的なシーンも覚えているのだが、そのディティールについての記憶は漠然としている。早い話が、その再発見の目論見が今回の鑑賞といえる。

 古い映画だからある程度のネタバレは容赦していただくとして、ざっくばらんにいってしまえば喉を病んで口が利けなかった少年が、言葉を発するに至るまでのたった一日の物語である。
 とはいえ、この少年が主人公ではなく、しかもその一日の間に、世界は一度破滅し、そして再び救済されているのであるが、それを知るのは主人公とその名が寓意するマリアという名の召使のみである。
 
 このくだりは、冒頭の郵便配達がいきなり展開するニーチェの「永遠回帰」の哲学論議に示唆されている。曰く「我々は何度も生まれ変わっているのだが、それに気づくこともない」というセリフがそれである。
 この郵便配達、この映画では重要な狂言回しの役割を果たしているし、他にも「無理をしてこその贈り物(=サクリファイス)だ」などという思わせぶりなセリフもある。
 破滅からの回復のための希望はマリアとの出会いでしかないと指摘するのも彼だ。

 冒頭近くの主人公の独白、「われわれの文明はもはや完全にバランスを失ってしまっている」も、この映画の内容を示唆している。

       

 上に、この映画において世界は一度破滅すると書いた。
 その破滅とは核戦争の勃発である。
 この映画の作られた80年代の中頃というのは東西冷戦の緊張も幾分和らいでいたとはいえ、なおかつ核戦争の危機は現実のものとしてあった。そしてそれは、現代文明が行き着く危機そのものとしてあったともいえる。

 その勃発に直面した主人公は、無神論を標榜していたにもかかわらず、己の全てをなげうって神と対決しようとする。それがまさに「サクリファイス」であり、捧げられる生け贄は彼自身である。
 結果として、マリアを通じて神は世界の破滅をとどめてくれたかのように見える。
 であれば、彼のサクリファイスは約束通り彼のすべてを差し出すことでなければならない。
 それを執り行う彼の儀式は壮絶である。

 ラストは冒頭と同じ、主人公と口の利けない少年が植えた日本(二本ではない)の木の傍らである。少年は父との約束通り木に水をやったあと、やっと利けるようになった口でつぶやく。「”始めに言葉ありき” なぜなのパパ?」と。

       

 この一本の木は、一昨年来、繰り返し見せつけられてきた陸前高田の「奇跡の一本松」を想起させる。それは、あの大災害にも耐えた希望のシンボルだという。
 この映画でも、この一本の木は、それに水をやる少年ともども、希望のシンボルであるのかも知れない。しかし、それが希望たりうるためには、やはり、多くのサクリファイスが先行していることを知らねばならないのだろう。

 冷戦体制が終わった今、核戦争の危機は遠のいたかに見える。しかし地球上には人類を数十回殺し尽くせる核兵器がなおかつ存在していることを考えるとき、それは過去の話では決してない。
 そして、それが兵器ではなくとも、原発という名で「平和利用」や「安全神話」の掛け声のもと、多くのサクリファイスを生み出しながら存続し、あの事故を受けて、やっとそれへの反省が始まったかに見えながら、逆ベクトルへの動きが強化されつつあることに注意を払わずにはいられない。

 サクリファイスは、ある人々の死傷や犠牲にとどまらず、私たち人類の変質ないしは劣化というかたちで実現されつつあるのかもしれないのだ。

 冒頭とラストの屋外のシーンの絵は印象的である。主人公の不安を表すシーンの草のゆらめきも美しい。室内シーンは主人公がは舞台俳優という設定を受けてであろうか、幾分演劇的な演出である。
 冒頭とラストには、バッハの『マタイ受難曲』からのアリアが、そして中途には日本の尺八の演奏が用いられている。


コメント (4)
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