子どもたちの正月の遊びも変わったというか多様化したというか、むかしのようなものは室外、室内共にあまり見かけなくなった。
私の場合、正月といえば屋外では凧揚げに夢中になっていた。
とはいえ、凧を買ってもらえる身分ではなかった。
疎開先の片田舎で、父が満州からシベリアへ送られたらしいという情報のみを信じ、その生死すらわからないままにひたすらその帰還を待ち受けていた事実上の母子家庭にとって、衣食住以外の出費はとても無理だった。
しかし、凧を買わないのは私のうちだけではなかった。田舎の子はみんな器用なので、父親やじいさん譲りで凧の作り方を心得ていた。
私も見よう見まねでそれらを習得した。
作るといっても組み立てキットがあるわけではない。
まず骨になる竹ひごを作らねばならない。
田舎のことで竹はどこにでもあった。
それを裂くようにして細くするのだが、幸い竹は私同様(?)真っ直ぐな性格をしているので、ちょっとコツを飲み込めば何とかなった。
細くて軽いほうがいいのに決まっていたが、それほど繊細にする必要もなかった。
私のいた地方では至ってスタンダードに、それらの竹ひごをTの字にしそれにXを組み合わせ、Tの字の水平の部分に糸を張って弓なりにし、それに紙を貼って出来上がりだった。
当時は紙は貴重品で、新聞紙も回し読みをしたあと包装紙や落し紙に使っていたので、あてにはできなかった。
落し紙にする場合には、皇室関係の記事や写真をもったいないからと婆さんが切り抜いてしまうので、いざ使おうとすると真ん中がポッカリと切り取られていたりした。
厠は疎開先の母屋と共通で戸外にあって、私たちも利用させてもらっていた。
婆さんの切り抜きは、みんなにとっても不評だったが、誰も表立っては苦情を言わなかった。
今では捨てるのに困るほどの折込広告というものも、当時はなかった。
文献によると、折込広告は大正時代から始まっていたようだが、戦中戦後には全く見られなくなっていた。
しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、凧にはうってつけの紙があった。
それは障子紙で、どこのうちにもあった。とりわけ正月は、年末に張り替えたものの余りがあって、それを使わせくれた。当時の障子紙は、今のように化繊混じりではない生粋の和紙であったから、今から考えれば、逆に贅沢な話だ。
糊はメリケン粉を水で溶かして火にかけて作った。
作りすぎると母に叱られた。
「そんなにたくさん作ってどうするの。残りは食べなさい」などといわれた。
実際のところ、メリケン粉は貴重な食材で、スイトンの材料であったり、祭りの時の手打ちうどんの材料でもあった。
さて、予め糸で組み立てた骨組みに障子紙を貼り付け、足(二本、場合によっては長いのを一本)をつければ出来上がりである。
しかし、凧の揚がりを左右するのは最後の糸つけだ。
風を受けて揚がった姿を想定し、慎重に糸を付ける。T の字の両端とX の中央との三本をバランスを考えながら一点で固定する。どれかが弛んでいると、空中でくるくる回る原因となる。
さて、こうして凧は出来上がるのだが、最後の難関が待っている。
凧作りがうまくいって、高く揚がれば揚がるほどたくさんの糸が要るのだ。
しかし、戦後の物資の不足している時代、子供の遊びに豊富な糸を提供してくれる親は少なかった。
また、提供してくれるそれが細かったり粗悪な場合は、すぐプチプチ切れてしまう。
これには困った。
私の場合は一計を案じて、町の銀行のえらいさんだという金持ちの息子と取引をした。私が細く裂いた竹ひごを提供する代わりに、凧を上げられそうな丈夫な糸を貰うのだ。
おかげで私の凧はよく揚がった。
冬の畑の中を駆けまわったので、爺さんには散々怒られたが、凧が高く揚がったプライドに比べればそんなものなんのそのだった。
澄んだ冬空に悠然と舞う私の凧は、世界を睥睨する神であり、それと糸でつながった私は神に最も近いその使徒であった。
大人になり、長男が小学生の高学年になったころ、凧作りを伝授すべく昔ながらの方法でそれを作リ、前の空き地で揚げた。
それは予想以上によく揚がった。
当初このくらいはと予定していた糸の分量を越えてなお揚がり続けた。
私の子供時代と違ったのは、物資がほぼ満たされていたことだ。
子供に凧をもたせ(それほど安定して揚がっていたのだ)、私はうちに駆け込み、焼き豚などを作る際に使う糸を全て持ち出し、それらをつなぎ合わせた。
凧はなおも揚がり続けた。
長い辺で50センチぐらいのそれが、もはや切手ぐらいにしか見えなかった。
しかし、何事にも限界はある。
グイグイ引くような手応えが急になくなったと思ったら、凧はさらに遠くへと飛び始めた。糸が切れたのだ。
おりからの風に乗って、凧はみるみるうちに視界から消え、ついにどこかへ行ってしまった。
後から息子に聞いたら、遙か彼方、二キロ近く向うで見つかったらしい。
この糸の切れた凧の思い出は、実はかつての正月の遊びと、それに最近、私が経験したことに関する複合的な思いとの合作である。
ひとつは、年末の日記でも触れたモーレンカンプふゆこさんの句集、『風鈴白夜』の結びの句と関わるものである。
糸の切れた風船白夜の今いずこ
今一つは、昨秋、伊吹山へイヌワシを見に行った沖縄の女性の思い出である。
この、旅の多い女性は、自分のことを「鉄砲玉」と表現したところ、それが活字になった折に、編集者によって一方的かつ無断で「無鉄砲者」と替えられてしまったと憤慨していた。
彼女の旅は決して「無鉄砲」ではない。所定の場所へ行って所定の用事を済ませて帰ってくる「旅行」と差異化する意味で自分の旅をあえて「鉄砲玉」といったのだろう。
そこには予定調和的なものではない思いが込められているのであって、決して単なる「無鉄砲」ではない。
ふゆこさんの「糸の切れた風船」にしても、沖縄の彼女の「鉄砲玉」にしても、定住者には満たされない遊牧民的(ノマド的)志向があるように思う。
それは、私のような農耕民族の末裔の、どうしようもない定住者にはいかんともし難いところではあるが、彼女たちノマドのくもりなき眼に写ったものを追体験することによって多少は、視野が開かれるのではないだろうか。
私という凧は、高く揚がることもできず、また自ら糸を切って飛び立つこともできないのだから。
シューマンの曲を聴きながら、飛び立つことがかなわず内面へと沈潜していった彼を思い目頭を熱くしている。とくに後期の曲にはその思いなくしては聴けないものが多い。ここ数日、毎日シューマンの、それも後期の作品を聴いている。
私の場合、正月といえば屋外では凧揚げに夢中になっていた。
とはいえ、凧を買ってもらえる身分ではなかった。
疎開先の片田舎で、父が満州からシベリアへ送られたらしいという情報のみを信じ、その生死すらわからないままにひたすらその帰還を待ち受けていた事実上の母子家庭にとって、衣食住以外の出費はとても無理だった。
しかし、凧を買わないのは私のうちだけではなかった。田舎の子はみんな器用なので、父親やじいさん譲りで凧の作り方を心得ていた。
私も見よう見まねでそれらを習得した。
作るといっても組み立てキットがあるわけではない。
まず骨になる竹ひごを作らねばならない。
田舎のことで竹はどこにでもあった。
それを裂くようにして細くするのだが、幸い竹は私同様(?)真っ直ぐな性格をしているので、ちょっとコツを飲み込めば何とかなった。
細くて軽いほうがいいのに決まっていたが、それほど繊細にする必要もなかった。
私のいた地方では至ってスタンダードに、それらの竹ひごをTの字にしそれにXを組み合わせ、Tの字の水平の部分に糸を張って弓なりにし、それに紙を貼って出来上がりだった。
当時は紙は貴重品で、新聞紙も回し読みをしたあと包装紙や落し紙に使っていたので、あてにはできなかった。
落し紙にする場合には、皇室関係の記事や写真をもったいないからと婆さんが切り抜いてしまうので、いざ使おうとすると真ん中がポッカリと切り取られていたりした。
厠は疎開先の母屋と共通で戸外にあって、私たちも利用させてもらっていた。
婆さんの切り抜きは、みんなにとっても不評だったが、誰も表立っては苦情を言わなかった。
今では捨てるのに困るほどの折込広告というものも、当時はなかった。
文献によると、折込広告は大正時代から始まっていたようだが、戦中戦後には全く見られなくなっていた。
しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、凧にはうってつけの紙があった。
それは障子紙で、どこのうちにもあった。とりわけ正月は、年末に張り替えたものの余りがあって、それを使わせくれた。当時の障子紙は、今のように化繊混じりではない生粋の和紙であったから、今から考えれば、逆に贅沢な話だ。
糊はメリケン粉を水で溶かして火にかけて作った。
作りすぎると母に叱られた。
「そんなにたくさん作ってどうするの。残りは食べなさい」などといわれた。
実際のところ、メリケン粉は貴重な食材で、スイトンの材料であったり、祭りの時の手打ちうどんの材料でもあった。
さて、予め糸で組み立てた骨組みに障子紙を貼り付け、足(二本、場合によっては長いのを一本)をつければ出来上がりである。
しかし、凧の揚がりを左右するのは最後の糸つけだ。
風を受けて揚がった姿を想定し、慎重に糸を付ける。T の字の両端とX の中央との三本をバランスを考えながら一点で固定する。どれかが弛んでいると、空中でくるくる回る原因となる。
さて、こうして凧は出来上がるのだが、最後の難関が待っている。
凧作りがうまくいって、高く揚がれば揚がるほどたくさんの糸が要るのだ。
しかし、戦後の物資の不足している時代、子供の遊びに豊富な糸を提供してくれる親は少なかった。
また、提供してくれるそれが細かったり粗悪な場合は、すぐプチプチ切れてしまう。
これには困った。
私の場合は一計を案じて、町の銀行のえらいさんだという金持ちの息子と取引をした。私が細く裂いた竹ひごを提供する代わりに、凧を上げられそうな丈夫な糸を貰うのだ。
おかげで私の凧はよく揚がった。
冬の畑の中を駆けまわったので、爺さんには散々怒られたが、凧が高く揚がったプライドに比べればそんなものなんのそのだった。
澄んだ冬空に悠然と舞う私の凧は、世界を睥睨する神であり、それと糸でつながった私は神に最も近いその使徒であった。
大人になり、長男が小学生の高学年になったころ、凧作りを伝授すべく昔ながらの方法でそれを作リ、前の空き地で揚げた。
それは予想以上によく揚がった。
当初このくらいはと予定していた糸の分量を越えてなお揚がり続けた。
私の子供時代と違ったのは、物資がほぼ満たされていたことだ。
子供に凧をもたせ(それほど安定して揚がっていたのだ)、私はうちに駆け込み、焼き豚などを作る際に使う糸を全て持ち出し、それらをつなぎ合わせた。
凧はなおも揚がり続けた。
長い辺で50センチぐらいのそれが、もはや切手ぐらいにしか見えなかった。
しかし、何事にも限界はある。
グイグイ引くような手応えが急になくなったと思ったら、凧はさらに遠くへと飛び始めた。糸が切れたのだ。
おりからの風に乗って、凧はみるみるうちに視界から消え、ついにどこかへ行ってしまった。
後から息子に聞いたら、遙か彼方、二キロ近く向うで見つかったらしい。
この糸の切れた凧の思い出は、実はかつての正月の遊びと、それに最近、私が経験したことに関する複合的な思いとの合作である。
ひとつは、年末の日記でも触れたモーレンカンプふゆこさんの句集、『風鈴白夜』の結びの句と関わるものである。
糸の切れた風船白夜の今いずこ
今一つは、昨秋、伊吹山へイヌワシを見に行った沖縄の女性の思い出である。
この、旅の多い女性は、自分のことを「鉄砲玉」と表現したところ、それが活字になった折に、編集者によって一方的かつ無断で「無鉄砲者」と替えられてしまったと憤慨していた。
彼女の旅は決して「無鉄砲」ではない。所定の場所へ行って所定の用事を済ませて帰ってくる「旅行」と差異化する意味で自分の旅をあえて「鉄砲玉」といったのだろう。
そこには予定調和的なものではない思いが込められているのであって、決して単なる「無鉄砲」ではない。
ふゆこさんの「糸の切れた風船」にしても、沖縄の彼女の「鉄砲玉」にしても、定住者には満たされない遊牧民的(ノマド的)志向があるように思う。
それは、私のような農耕民族の末裔の、どうしようもない定住者にはいかんともし難いところではあるが、彼女たちノマドのくもりなき眼に写ったものを追体験することによって多少は、視野が開かれるのではないだろうか。
私という凧は、高く揚がることもできず、また自ら糸を切って飛び立つこともできないのだから。
シューマンの曲を聴きながら、飛び立つことがかなわず内面へと沈潜していった彼を思い目頭を熱くしている。とくに後期の曲にはその思いなくしては聴けないものが多い。ここ数日、毎日シューマンの、それも後期の作品を聴いている。