六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

御巣鷹山に舞う蝶々たちは‥‥。

2009-09-08 01:00:31 | 想い出を掘り起こす
   

 所用で車を運転していて交差点で信号待ちをしていたら、フロントグラスのすぐ目の前で、つがいの青筋アゲハがもつれるようにしてじゃれ合いはじめました。まるで私に見せつけるようにほとんど同じ位置で飛びながら、恋の戯れを交わし続けているのです。
 
 信号が変りました。私は一瞬、発進をためらいました。このままアクセルを踏んだら、彼らの愛の交歓に水を差すばかりか、その個体を傷つけてしまうのではないかと恐れたのです。
 しかし相手は羽根をもつ身、廻りの車が動き出す気配を察知してかもつれ合ったまま上空へと昇って行きました。

 この光景を見ながら、私はある歌を思い出していました。
 それは1985年8月12日の日航機御巣鷹山事故で亡くなった坂本 九さんの『蝶々』という歌でした。詳しい歌詞はともかく、「上になったり下になったり、蝶々っていいな」というところだけ覚えています。
 なぜ詳しい歌詞を覚えていないかというと、まさに私が覚えているその唯一の箇所が問題となり、理不尽にもそれを卑猥だとして突然、放送禁止にされてしまったからです。1968年のことでした。40年前の日本は、それほど野蛮な国だったのですね。

 この日航機御巣鷹山事故については、やはり思い出があります。当時は深夜までの仕事でしたから、仕事を終えて名古屋から岐阜へ帰る車のなかで、この事故にまつわる放送をずーっと聞いていたのでした。それが8月12日だということを覚えているのは、その翌日から短い夏休みに入ることになっていたからです。
 どこへ不時着したのかも分からない状態でしたが、私が家に着く頃、どうやら御巣鷹山あたりだということが判明したようでした。
 「上になったり下になったり、蝶々っていいな」と楽しげな表情で歌っていた坂本 九さんが、その犠牲者のうちにいると知ったのはしばらくしてからでした。

 所用を終えて帰宅し、植木などに水をやっていると、ふと肩先をかすめるものがあります。首をめぐらすとやはり青筋アゲハでした。もちろん、さっきじゃれ合っていたのが先回りして待っていたわけではありません。
 
 そういえば、春先から、今年はよくアゲハや青筋アゲハを目にしました。目撃数は例年になく多いと思います。しかし、アゲハ類が急に増えたという話は聞きませんから、多分、私の目線の問題なのでしょう。
 
 これもまた、母の逝った年の思い出でしょうか。

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アクアージュと白いワニと「ちょっとだけよ」

2009-09-06 04:04:40 | ラブレター
     

 写真は、岐阜の繁華街、柳ヶ瀬の一角にある「アクアージュ柳ヶ瀬」という通路です。アクアージュというのはアクア(=水)とパサージュ(=通路)を合成してできた言葉で、要するに「水の道」なのです。
 私はこの路地が好きで、用がなくともここを通ったりします。夏などは特にひんやり感を体験することができます。

 一見したところ普通の路地なのですが、この下にはちゃんと水が流れていて、長良川からとられたその水流は、かつては灌漑用水だったようです。
 前にちょっと調べたことがあるのですが、岐阜の街には縦横に水が走っていて、しかもそれらはほとんど清流なのです。にもかかわらず、今日それを見ることはほとんどできません。

 私が子供の頃や若い頃には、随所でそうした水流を目撃できたのですが、今ではその至近距離に住んでいる人すら、その足下に清流が流れていることを知りません。
 なぜなら、それらの水流は、今ではそのほとんどが暗渠になっていて人の目に水が触れることはないのです。要するに、人間様の都合により、それらのほとんどに蓋をし、通路や駐車のスペースにしてしまったからです。

 陽が当たらない川は死にます。あたら清流が流れているのに、それらが闇の中を黙々として流れるのはもったいないことです。
 むかし、SF小説で、大都市の暗渠に逃げ込んだワニが、代々その暗闇に適応しながら、ついには目は退化するものの音と匂いですべてを判読できる真っ白なワニになる話を読んだことがあります。
 岐阜の暗渠には、ワニはいないでしょうが、真っ白なオオサンショウウオぐらいならいるかも知れません。

     

 もし、私が岐阜の地で革命を起こしたら、まず第一に、暗渠の蓋を取っ払い清流を陽のもとにさらします。その時、白いオオサンショウウオがどうなるのかがちょっぴり不安なのですが・・。

 アクアージュに戻りましょう。
 ここに水があるのはごく自然なことです。柳ヶ瀬という地名そのものが瀬のほとりに柳が生い茂っていたことによるに違いないからです。ですからここは、柳ヶ瀬のシンボルのようなところなのです。

 ここの通りが好きなのは、わずかではありますがこの下を流れる清流が顔を出しているからです。上の写真でいうと、前方の鉄柵のあたりです。そしてそこには魚たちがいます。緋鯉やフナ、そして、ウグイや白ハエのような連中です。
 「お前たち、よくこの暗渠で暮らしているな」と声をかけるのですが、どっかの無粋なオッサンが来たとばかりにいったんは暗渠に逃げ込みます。
 しかし、しばらくじっとしていると、またポワ~ンと現れるのです。この瞬間、私の中には、この魚たちへの愛おしさのようなものが溢れるのです。

 それは例えば、今様の開けっぴろげのストリップショウに対して、大昔の「ちょっとだけよ」というストリップのもっていた矜持のようなものに似ているかも知れません。しかし、その矜持を愛しながらも、私の中の革命家は、この閉ざされた川を開けっぴろげにせよと叫び続けるのです。

 私は夢想します。私の革命が成就しなくとも、いつの日かこのアクアージュの解放された空間から、真っ白なワニやオオサンショウウオがたくさん現れて行進をし始める光景をです。その時私は、その先頭に立って、ブラボーと叫びたいのです。

 え?お前なんか真っ先にワニに喰われる? いいですとも、真っ白なワニに喰われるという貴重な経験が私の革命なのですから・・。

 アクアージュという言葉の後半はパサージュだといいました。
 パサージュは常に、それを辿るものを意外な地点へと導くのです。
 他なる地点、他なる時間、他なる次元。
 革命とはそこへと至ることではないでしょうか。


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未確認飛行物体と未確認な私

2009-09-04 17:47:02 | よしなしごと


 秋空に、未確認飛行物体(UFO)を捉えました。
 
 しかし、実をいうと、この暮れゆく空とカメラの間にはガラスがあります。
 従って、ガラスに映った何ものかが、カメラに捉えられたわけです。

 ということは、未確認なのはその物体ではなく、その間にあるガラスだということになります。
 私たちは、そういう誤認をよくします。
 こちらの視線の問題を、その対象のせいにしてしまうのです。
 誰かさんの言う、コペルニクス的転回と関係があるのでしょうか。

 以上、未確認な私の未確認な情報でした。
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帰ってきた浦嶋太郎

2009-09-03 00:02:45 | よしなしごと
 

 亀を助けたわけではありません。
 しかし、竜宮城から帰還したかのような気分です。

 しばらく私事に埋もれている間にいろいろあったようです。
 様々な人が様々なことをいっています。
 でも、現実に自分がそこにいないような奇妙な感じがするのです。

 確かなのは季節の変動です。
 吹く風や、空の雲のありさま。
 その絶妙な色合いを眺めながら、小さな溜息などをついたりします。

 2、3世代下の女性と、新しい仕事の打ち合わせをしました。
 竜宮城へ行く前から予定していたものです。
 彼女の元気さに接し、かなり現実へと戻ってくることが出来ました。

 親しい知人とも電話で話をしました。
 変な慰めはなしの極めて現実的な話です。
 
 かくして、玉手箱をもっていない私は、いきなり時間を飛び越えることも出来ず、またもや現世への帰還を余儀なくされつつあるのです。
 今後ともよろしく。
 


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