写真は、岐阜の繁華街、柳ヶ瀬の一角にある「アクアージュ柳ヶ瀬」という通路です。アクアージュというのはアクア(=水)とパサージュ(=通路)を合成してできた言葉で、要するに「水の道」なのです。
私はこの路地が好きで、用がなくともここを通ったりします。夏などは特にひんやり感を体験することができます。
一見したところ普通の路地なのですが、この下にはちゃんと水が流れていて、長良川からとられたその水流は、かつては灌漑用水だったようです。
前にちょっと調べたことがあるのですが、岐阜の街には縦横に水が走っていて、しかもそれらはほとんど清流なのです。にもかかわらず、今日それを見ることはほとんどできません。
私が子供の頃や若い頃には、随所でそうした水流を目撃できたのですが、今ではその至近距離に住んでいる人すら、その足下に清流が流れていることを知りません。
なぜなら、それらの水流は、今ではそのほとんどが暗渠になっていて人の目に水が触れることはないのです。要するに、人間様の都合により、それらのほとんどに蓋をし、通路や駐車のスペースにしてしまったからです。
陽が当たらない川は死にます。あたら清流が流れているのに、それらが闇の中を黙々として流れるのはもったいないことです。
むかし、SF小説で、大都市の暗渠に逃げ込んだワニが、代々その暗闇に適応しながら、ついには目は退化するものの音と匂いですべてを判読できる真っ白なワニになる話を読んだことがあります。
岐阜の暗渠には、ワニはいないでしょうが、真っ白なオオサンショウウオぐらいならいるかも知れません。
もし、私が岐阜の地で革命を起こしたら、まず第一に、暗渠の蓋を取っ払い清流を陽のもとにさらします。その時、白いオオサンショウウオがどうなるのかがちょっぴり不安なのですが・・。
アクアージュに戻りましょう。
ここに水があるのはごく自然なことです。柳ヶ瀬という地名そのものが瀬のほとりに柳が生い茂っていたことによるに違いないからです。ですからここは、柳ヶ瀬のシンボルのようなところなのです。
ここの通りが好きなのは、わずかではありますがこの下を流れる清流が顔を出しているからです。上の写真でいうと、前方の鉄柵のあたりです。そしてそこには魚たちがいます。緋鯉やフナ、そして、ウグイや白ハエのような連中です。
「お前たち、よくこの暗渠で暮らしているな」と声をかけるのですが、どっかの無粋なオッサンが来たとばかりにいったんは暗渠に逃げ込みます。
しかし、しばらくじっとしていると、またポワ~ンと現れるのです。この瞬間、私の中には、この魚たちへの愛おしさのようなものが溢れるのです。
それは例えば、今様の開けっぴろげのストリップショウに対して、大昔の「ちょっとだけよ」というストリップのもっていた矜持のようなものに似ているかも知れません。しかし、その矜持を愛しながらも、私の中の革命家は、この閉ざされた川を開けっぴろげにせよと叫び続けるのです。
私は夢想します。私の革命が成就しなくとも、いつの日かこのアクアージュの解放された空間から、真っ白なワニやオオサンショウウオがたくさん現れて行進をし始める光景をです。その時私は、その先頭に立って、ブラボーと叫びたいのです。
え?お前なんか真っ先にワニに喰われる? いいですとも、真っ白なワニに喰われるという貴重な経験が私の革命なのですから・・。
アクアージュという言葉の後半はパサージュだといいました。
パサージュは常に、それを辿るものを意外な地点へと導くのです。
他なる地点、他なる時間、他なる次元。
革命とはそこへと至ることではないでしょうか。