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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「白」か「黒」か・・・<その1>

2009-09-23 03:48:32 | 花便り&花をめぐって
 犯罪事件を調べようとするわけではありません。
 単純に色彩の「白」と「黒」についてです。

 先日のことです。
 ある会合に出るため、名古屋市は東区の高岳という地下鉄の駅で降りて歩道を歩いていました。ふと見上げると、晴れ渡った秋空になにやら黒いものが点々と・・・。
 ハテ、何だろうと考え込んだのですが、次の瞬間、ひょっとしたらという思いが頭をかすめました。減退しきった記憶の巻き戻しです。

 失われたとみえた記憶に割合容易に辿り着くことが出来ました。それもそのはず、私の記憶に刻み込まれた痕跡が示すのはまさにこの場所、しかもこの木、わずか5ヶ月前のことだったのです。
 そうなのです、5ヶ月前、私はこの木を、正確にはこの木の花を撮影し、日記に載せたりしたのです。
 その花は、ヒトツバタコ、通称ナンジャモンジャの花でした。
 即座に思い出せなかったのはその実の色合いにあります。
 あんな白い花の実が、こんなに真っ黒になるなんて・・・。

 
            晴れた秋空に黒い点々が・・・

 しかし、と私は思い当たるのです。花の色とその実の色とが一致することの方が稀で、だいたい違う方が当たり前なのですね。白い花から赤いリンゴが、黄色い花から緑のキュウリが、白い花から褐色のナシがといった具合です。
 茄子などは、その花の色と果実の色が似ている方ですね。

 ではなぜ、花の色と果実の色が違うのでしょう。
 そこである仮説へと至ります。
 植物にとっては、花と果実とではその機能が違うため、そうした変化が起こるのではないでしょうか。つまり花のときは、虫などに受粉を媒介してもらうためにそうしたものの注意を引く色となり、果実のときにはその種子を運んでもらうため、鳥や獣たちの注意を引く色になるという仮説です。

 
           これが5ヶ月前の同じ木です

 これはひととおり筋道が通った推理ですが、それがなにがしか正しいとしても、植物自身の意志やその他の大いなる意志が働いてそうなったとはいえないようです。
 むしろ逆に、そうした遺伝形質をもち、それが自然に適応していたためにたまたま生き残ったというのが実情ではないでしょうか。
 ようするに、今なお生き残っている種は、自然に適応できず、あるいは自然の変化について行けず絶滅してしまった死屍累々の種の中でかろうじて生き残ったものだともいえます。
 したがって、生き残ったものはかく努力したからだという物語は、結果論に過ぎないのではないでしょうか。

 もちろんこの話は、生物の後天的な獲得形質が遺伝子に作用し、適応性を高めるという側面を無視するものではありません。

 
             もう少し近づいてみましょう

 植物や動物のありように人間と同じような意志のようなものを想定するのは、それ自身、人間的な見方ではないかと思うのです。
 これを思い知らされたのに、いわゆる生物の擬態についての話があります。
 よく、木の葉にそっくりな蝶や海草にそっくりな海の小動物などを見るとき、「なるほど、巧くしたものだ」と、そこになにか意志の力のようなものを感じてしまいます。

 しかし、この擬態に関する感慨は単に人間特有な視点によるものなのだというのです。どういうことかというと、ある統計的な結論から言えば、擬態をする(という言い方がすでにして人間の視点なのだそうですが)蝶と、そうでない蝶とが捕食される割合はあまり変わらないというのです。
 「やあ、巧く化けたなぁ」と思うのは人間のみで、それを捕食する動物は、私たちとは別のセンサーをもっていて、擬態を見破ってしまうのです。考えてみれば、何かと何かが似ているという観念はきわめて人間的なもので、動物の世界ではその類似よりも差異をキャッチする能力の方が勝っているのかも知れません。

 生物の形や生態をまるで意志あるもののように考えてしまうこと、擬態を文字通り欺く手法としてみる視点、それらはまさに人間中心主義的な見方にすぎないのかも知れません。

 あ、また脱線です。
 あの白い花が、黒い実をもたらすことへの素直な驚きにとどまれないのが私を詩人から遠ざけているようです。

コメント
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