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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

安い・美味いの新春野菜談義

2009-01-06 16:46:14 | よしなしごと
 今日は農協の野菜売り場の初売りに行ってきました。
 以下のものを買いました。
   
   長ネギ(太いの細いの合わせて7本) 90円
   里芋(土付き) 160円
   蕪(大)2個  100円
   菊菜(スパーのものの1.5倍) 80円

                合計 430円

 安いでしょう。
 しかも朝とれの新鮮なものばかりです。

 
            買ったものを車のトランクへ

 もうひとつ特徴があります。
 それはこの辺の農家は基本的にハウス栽培をしていないため、いわゆる路地ものばかりで季節外れのものがないということです。
 ですから、どこのスーパーにも溢れているキュウリやナス、ピーマンやシシトウ、トマト、キヌサヤといったものはこの時期全くありません。ようするに旬の野菜しかないのです。
 農協と付き合いだしてから、我が家の野菜料理のラインナップも季節の野菜中心になりました。

 
             うちへ帰って荷ほどきと点検

 そうそう、もうひとつ特徴があります。
 野菜の形状がまちまちなのです。曲がったキュウリは当たり前で、二股のダイコンや捻れたようなニンジン、それぞれ思い思いの格好をしたサトイモなどが我が物顔で並んでいます。
 おそらくスーパーでは仕入れの段階で刎ねられてしまうようなものですが、味の方はむしろいいようにすら思います。

 葉ものなどは虫食い跡のあるものもあります。はじめは少し気になりましたが、今ではすっかり慣れました。
 むろん、あまりひどいものは敬遠しますが、基本としては虫が食べるものの方が安全だと思うようになりました。

 
       こんなところから出荷?カキもネギも出ている(12月撮す)

 値段が安いのは先に述べた通りですが、とくに最後の頃になるとおまけをしてくれるのです。
 二つしか残っていないもののひとつを買おうとすると、「これもサービス」といって残りのひとつも無料でくれます。
 ちょっと葉が萎れかかっていると、「100円だけど50円」といってまけてくれます。
 
 これらは、スーパーにない対面販売の楽しさです。
 「○○はないの?」と尋ねると、「もう少ししたら××さんが持ってくるはずだけど」などと応えてくれます。
 いつも顔を出すので、レジのおばさんとすっかり顔なじみになりました。とくにサービスがいいのは(私の男前はさることながら)多分、嫁に先立たれたか逃げられた哀れなやもめじいさんと思われているからではないでしょうか。

 野菜や果物の旬ということでちょっと考えたことがあるのですが、それ自身けっこうボリュームのある文章になるので、別の機会に譲ります。
 



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「革命」は死語でしょうか?

2009-01-05 04:00:28 | 社会評論
 もうおめでとうはいいましたよね。
 今年はちょっと異変のあった正月でした。

 わが世の春とふんぞり返っていた大企業があたふたしているのは「おざまをご覧遊ばせ」といったところですが、その富を築いてきた労働者が、とりわけ、派遣とか不正規とかで都合のいいときだけ利用された人たちが、使い捨て同様、冬空に放り出されるのは我慢ならないものがあります。
 今回の事態には、もちろん速やかに対応すべきですが(企業はこれまで上げてきた利益を取り崩し、救済に当てるべきだ)、同時に、これだけ派遣や不正規がはびこる雇用形態の異常さを根本的に改めねばなりません。

 そのためには、1986年から施行されている派遣法そのものに立ち戻り、とりわけ、1999年と2003年の改悪で、あらゆる業種に派遣が可能になった経緯が再検討されねばなりません。これは、明らかに労働者使い捨て法案に他ならないからです。

 
   我が家の玄関先の六蛙(むかえる)おかげで新年を六蛙ことが出来ました

 さらにもうひとつ、こんな「蟹工船」的、「女工哀史」的状況が改善されないのなら、資本主義的生産様式そのものを対象にしたアルタナティヴなシステムを志向すべきではないでしょうか。
 長い歴史のスパンでみたら、この資本主義的生産様式はたかだか150年を経過しただけのシステムで、決して人間にとっての自然条件ではないと思います。

 前世紀、社会主義という試みがありました。
 これがまた、ある種の抑圧や悲惨を結果し、その終焉を迎えたことは周知の通りです。
 当然のこととして、この再興を図れというわけでは決してありません。それ自身の限界は既に明らかだからです。

 
           昨日行った本屋の駐車場かあら

 残念なのは、それらが惨状を呈したということで、それ以降、現行のシステムの限界を見定めそれに変わるアルタナティヴなシステムを志向するという動きそのものが見られないことです。
 確かに、「大きな物語」の時代は終わったかも知れません。
 しかしながら、現実に生起している事態を目の前にして、対処療法的なものをつぶやくだけでは、それらは常にごく部分的な療法を可能にするのみで、再発は必至だと思われます。

 アルタナティヴなシステムの追求を若い人たちや学究に期待します。
 もちろん、セーノでそれを実施したら、あらゆる問題が霧散するなどと夢見ているわけではありません。否、むしろまた、新しい問題すら起こりうるでしょう。
 しかし、漸進的に人類の悲惨を減少することは出来るのではないのでしょうか。


             何じゃこりゃ?

 これは、私の高校生の時からの夢です。
 その夢を巡り、幾多の誤りを犯し、無為な彷徨をもしてきました。
 半世紀を経た今、なおかつその夢にすがりついています。
 難儀なことですね。

 


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絵に描いた寝正月と1月の紅葉

2009-01-02 23:42:58 | よしなしごと
 たくさんの方からお年賀のご挨拶をいただきました。
 いちいちご返事できなかった方もいます。
 誠に申し訳ありません。
 横着して、まとめてお返しのご挨拶をさせていただきます。

 昨日は、絵に描いたような寝正月でした。
 一応朝起きて、雑煮を祝い、おせちを肴にお屠蘇代わりの大吟醸などをいただいたのですが、さほど飲まなかったのにいい機嫌で、ちょっと仮眠ぐらいのつもりでベッドに入ったのですが、気がついたらもう午後も遅い時間。

 出さなかったのに来た賀状に返事をしたため、150メートル程離れたポストに投函に。

 
 
 ついでに思い立って、すぐ近くの鎮守様に初詣、無人の神社は時間が時間とあってひと気がありません。
 鳥居をくぐろうとすると、出てくる人がいたので、「おめでとうございます」と声を掛けたら、瞬間、驚いたように一息あってからぼそぼそと返事がかえってきました。この辺の田舎では、かつては見知らぬ人とでも出会いに挨拶をしたものだが、今では稀なようです。

 拝殿は無人でしたが、今年は家族関係に変動が見られそうな要因がいろいろあるので、それらが無事に進みますよう祈念して多少賽銭をはずみました(いくらかは内緒)。
 むろんどこかにいる神様が、万事巧く取りはからってくれるなどと虫のいいことは考えていませんが、自分に対する鼓舞激励と決意の明確化のようなものです。
 神は私にとってはその証人のようなもので、天地神明に誓うというのも私の中では死語ではありません。
 いてみれば、他者の視線の内面化のようなものです。
 
 

 拝礼を済ませて回れ右をすると、今度は親子連れ三人がやってくるのとすれ違いました。
 やはり「おめでとうございます」と声を掛けると、今度は元気のいい挨拶が返ってきました。先ほどの分が帳消しになったようでいくぶん気が晴れました。

 というようなことで、さしてとくに記すべきこともない正月ではありました。やはり、目出度さも「中ぐらい」がいいのかも知れません。

 今年の抱負などというのは特にありません。
 だんだん、だらしなくなってきて、自分に負荷をかけないと読書や勉強が進まないようなので、少し背伸びをしてみようかなどと思ってはいます。
 背伸びをしないと腰が曲がって来る年なのです。

 *写真はツツジとユキヤナギの紅葉。
  紅葉というと秋や晩秋と思われがちだが、全ての植物がセーノーと
  紅葉するわけではありません。そんなわけで一月でも綺麗なものも
  けっこうあります。
  またカエデやモミジやナナカマドばかりが美しいわけでもありません。
  身近にも美しく紅葉するものがたくさんあるようです。
  いずれも、1月2日撮したものです。




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めでたいのだろうか? そうありたいものだ!

2009-01-01 04:04:48 | よしなしごと
 


    
    
       母が入院している病院の玄関にて 病人に幸あれ


 
 
    今年のおせち プラス赤カブの酢 鮭マリネー 数の子など


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