六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

人びとが一緒に暮らすということを考える 祭囃子は公害?

2015-07-12 01:37:58 | よしなしごと
 またかと思う。
 祭りばやしの練習を騒音としてクレームを付ける人たちがいるので、練習場所や練習時間が限定され、伝統的な祭りの継承もままならないというニュースに接してである。
 これは、乳幼児を載せたベビーカーを電車内に持ち込むなとか、近所の幼稚園、保育園の児童の嬌声がうるさいから移転しろとかいうクレームと同質のものだと思う。

 とはいえ、こうしたクレーマーを一方的に責めようとは思わない。一般的にいって、より快適な生活を求める権利は誰にもあるし、ある種の音質や音量に対してとても敏感に反応する人たちの存在は否定できないからだ。
 しかし、複数の人たちが複数の事情を抱え、複数の行為を余儀なくされる現代社会にあっては、それらの間の然るべき調整は不可避であり、どちらか一方の要請のみで事態が解決することはまずない。少なくとも、相手に迷惑を及ぼすと考えられる行動が不可避な場合は、それに対する礼を尽くすべきだし、そうしなければならない自己の立場を釈明する態度をもつべきだし、また、できうる限りの対策を考慮すべきであろう。

 一方、自分が犠牲者であると思い込む人たちも、世の中は複数の要請が錯綜する場であることをわきまえて、我慢の限界を見据えながら譲るべき点は譲るべきであろう。とりわけ、こうしたクレームが持ち込まれるのは、自治体などの公共機関であろうが、それらを私的な利害の衝突ぐらいに軽く考えるのではなく、積極的に仲介の労をとり、その落ち着く点を見出すべく努力すべきだろう。騒音などが原因で殺人事件にまで至った例もひとつやふたつではない。

         
最近この花をよく見かける。ゲンペイカズラによく似た色調だが、サルビア・ミクロフィラ 'ホット・リップス'という花らしい。世の中で起こっていることはこの花のように赤白をはっきり確定できない事態が多い。

 かつて、ある養豚業者に関する記事を読んだことがある。彼はその養豚場を設置する際、臭気などを配慮して集落とは遥か離れた場所を選んだ。
 しかし、その後の高度成長期の影響で、その街は周辺へとどんどん拡張し、ついには彼の養豚所は住宅街に取り囲まれることとなった。そしてその結果は、臭い、不衛生だ、地価が下がるなどの非難の対象となってしまった。彼はいつの間にか、新興住宅地に居座る環境破壊の元凶にされてしまったのだ。
 彼の談話が印象的だった。
 「私はあなたたちがやってくる何十年も前からここにいたのだ。あなた達は豚カツを食べたことはないのか、ラーメンのチャーシューは豚肉であることを知らないのか」

 この談話に類して、冒頭の事例を述べるならば、以下のようになるだろう。
 「あなたたちは、自分が子供の頃、乳母車やベビーカーで公共の場所に出かけたことはないのか。子供の頃、嬌声を発したことは一切ないのか。祭りばやしをBGに夜店の喧騒に心をときめかしたことはないのか」
 しかし、これをいったところで無駄かもしれない。多くの人はそうした記憶は失っているか、それはそれ、これはこれと応えるだろうから。

 私はこの養豚業者の記事をひとごとならぬわが家族の歴史として読んだ。
 そして、この業者の悲憤を手に取るように理解した。
 それについて語るには、もうじゅうぶん長くなったので、この続きは次回にしようと思う。


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする