六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

JR関西線の思い出  海、公害、修学旅行

2014-06-16 01:53:59 | 想い出を掘り起こす
 久しぶりにJRの関西線に乗った。
 四日市での20年近く前の友人たちとのいわゆるオフ会に出席するために、名古屋から利用したのだ。
 どのくらい久しぶりかというと、なんと64年ぶりということになる。

 平行して近鉄線が走っていて、そちらのほうがはるかに便利そうなのだが、あえてJRにしたのは時間に余裕があったのと、この路線についての思い出のようなものを実際に乗って追体験してみたかったからである。
 64年ぶりと書いたが、それ以前はよく乗っていたのかというとそうではない。
 多分、私の記憶では、それまでに二回乗車したのみだと思う。


          
          特急ひだ、快速みえ 揃い踏み 名古屋駅にて

 その第一回目は、いまを去ること66、7年前で小学校の2、3年生の頃であった。この折、私は初めて海というものを見たのだった。
 大垣の郊外に住んでいた私は、美濃赤坂線の荒尾という駅から大垣へ出て、そこから東海道線で名古屋へ至り、関西線に乗り換えて富田浜へ海水浴に連れて行ってもらった。まだ電化されていない頃で、全て蒸気機関車による列車だった。

 富田浜はそのまま駅名だが、その名の通り、駅のすぐ前がもう浜辺で、白砂青松の景勝地だった。そこへと着いた私が、いの一番にしたことは波打ち際へいって海水を舐めてみることだった。本当に辛かった。

 で、今回、その富田浜ではとくに注意を払って海岸があったと思しき方角を車窓から見たのだが、四日市コンビナートの一角に属するこの地区ははるか先まで埋め立てられ、往時の面影を残すものとしては、線路とは少し離れ、平行して残された松並木のみであった。かつてはその先がもう砂浜だったのだ。

 なお、約半世紀前にサラリーマンであった頃、この地区の国道1号線を仕事でよく走ったが、もう、桑名あたりから亜硫酸ガスを含む悪臭が漂い始め、この富田浜あたりでは車の窓を開けていられない状態であった。
 当時は、高級車以外はエアコンの設備はなく、夏など閉めきった車内は灼熱地獄であったが、襲い来る悪臭よりもはという思いがあった。
 また、この辺りで獲れる魚類は、モロに石油の臭いがして、とても食用にはならないどころか、口元へもってゆくのみで吐き気がする有り様だった。

 果たせるかな、幾ばくもしないうちにそれによる喘息の被害や、海水汚染などなどの複合的な四日市公害が問題視されるようになった。
 今日、それへの司法、立法、行政の各措置がなされ、問題はすべて解決したように思われがちだが、決してそうでないことを描いた東海TVによる優れたドキュメンタリー映画がある。それへの感想は以下の私のブログにかつて書いた。


http://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/e/1e515058583122ba25ccda062fe497d5

          
 JR四日市から近鉄四日市間の中央通り 通称70メートル道路またはくすのきロード

 関西線の思い出に戻ろう。二回目に、すなわち64年前に乗ったのは小学校の修学旅行の折だった。この時はもう岐阜に住んでいたが、岐阜から修学旅行用の特別列車で、名古屋経由の関西線を利用し奈良へいったのだった。帰りはたしか京都経由の東海道線だったように思う(京都は停車はしたが降りることはなかった)。あるいはその逆だったかもしれない。共に蒸気機関車の列車だった。

 当時のスピードの遅い列車での日帰り旅行はかなりの強行軍で、朝、暗いうちに岐阜を出て、帰りは真夜中ということで、共に保護者の送迎を必要とした。
 これは1950年の11月のことで、多分その月の中頃だったと思う。
 なぜそんなことが記憶にあるかというと、その旅行から帰って一週間もしない間に、京都駅が全焼したからである。それを新聞で見て、「エッ、この間通った京都駅が」と驚いた記憶がある。いまその火事について調べてみると、11月18日の出来事とある。
 なお、燃えたのは今の京都駅の、前の、前の駅舎であった。

 以上が関西線にまつわる私の思い出であるが、これと平行して走る近鉄にその利便性の面でやはり後れを取っている。単線のための運行の制約もあるが、インフラの面でもかなり遅れている。
 桑名や四日市のような都市の駅でも、バリアフリーの設備は全くなく、跨線橋を自分の足で登り降りしなければならない。
 帰りは、近鉄を利用したので彼我の差が歴然としているのを実感できた。
 


 
 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする