この周辺での田植えのピークはこの土日だった。まだ植えられていない田も散見できるが、ほとんどの田では終了したようだ。
土日に集中するということは、このあたりの農家の大半が兼業であることを示している。
私がが子供の頃、というのはもう70年ほど前だが、田植えと稲刈りとというのは農家にとっては一大イべントで、子どもも含めて、文字通り一家総出の大仕事であった。
学校もまたこの時期には農繁期の休日を設けていた。
私は小学生だった数年間、疎開先の母屋の田植えを手伝ったことがある(もちろん稲刈りも)。低学年の頃は苗を運ぶなどの単純作業だったが、高学年になるに従って、実際に苗を植える作業もした。
機械化などまったくされていない時代であるから、手で植えつけるのである。
下手に植えると、根が浮いてきてしまうので、親指と人差し指、中指を添え、それを鳶口のようにしててしっかりと植えつけねばならない。
作業の合間に、あぜ道で一家揃って食べるおやつや弁当は実に楽しかった。そんな集団が、あちらの田でも、こちらの田でも盛り上がっていた。いまのように少子化ではなく、産めよ増やせよの時代の後だから、どの集団も大きく、華やいだ声が田の水面を往来した。
それはおそらく、今のようなビジネスとしての田植えを超えた何ものかであったといえる。米作りというのは終始、地を這いまわるような作業の連続ではあったが、やはり、田植えと稲刈りは特別の日、いわばハレの日といってよかった。
さて、今の時代の田んぼに戻ろう。
先日、田植えを済ませたばかりの田で、巧く植えられなかった箇所の補修をしているのであろうか、田のなかを往来して、所々で稲をいじっている人がいた。
昔なら、この後しばらくすると、次々に生えてくる雑草との闘いが炎天下のもとで続いたものだが、いまはそれも薬で処理しているようだ。
むむ?怪しげな影が・・・・
はがきを出しに行ったついでに、改めて田を眺めてみた。
まだ頼りなげな稲の赤ちゃんたちが、田んぼに散りばめられたまま、いくぶん戸惑ったように風にそよいでいる。
これが、秋には下の写真のようにたわわに実をつけるとは信じがたいほどだ。
こうした物事の変化を、アリストテレスは「潜勢態」から「現勢態」という言葉で説明している。
ようするに予め潜んでいる力が現実となって現れるということだが、その過程は予定調和的にいつもうまくゆくわけではない。
稲の場合にしたって、自然の、あるいは人為による環境の変化で必ずしも実りが保証されているわけではない。また、実ったところで、豊作、不作の差異は免れがたい。
この「潜勢態」から「現勢態」へという捉え方は、「必然性」と「偶然性」、あるいは「存在者と存在の存在論的差異」などという問題とも関連してきて面白いのだが、ここまで来るとご隠居さんの衒学趣味といわれそうだから、このへんでやめておこう。
何はともあれ、このひ弱で危なっつかしい苗たちが立派に育って、秋には一面の黄金の波となって「現勢」することを祈っている。
土日に集中するということは、このあたりの農家の大半が兼業であることを示している。
私がが子供の頃、というのはもう70年ほど前だが、田植えと稲刈りとというのは農家にとっては一大イべントで、子どもも含めて、文字通り一家総出の大仕事であった。
学校もまたこの時期には農繁期の休日を設けていた。
私は小学生だった数年間、疎開先の母屋の田植えを手伝ったことがある(もちろん稲刈りも)。低学年の頃は苗を運ぶなどの単純作業だったが、高学年になるに従って、実際に苗を植える作業もした。
機械化などまったくされていない時代であるから、手で植えつけるのである。
下手に植えると、根が浮いてきてしまうので、親指と人差し指、中指を添え、それを鳶口のようにしててしっかりと植えつけねばならない。
作業の合間に、あぜ道で一家揃って食べるおやつや弁当は実に楽しかった。そんな集団が、あちらの田でも、こちらの田でも盛り上がっていた。いまのように少子化ではなく、産めよ増やせよの時代の後だから、どの集団も大きく、華やいだ声が田の水面を往来した。
それはおそらく、今のようなビジネスとしての田植えを超えた何ものかであったといえる。米作りというのは終始、地を這いまわるような作業の連続ではあったが、やはり、田植えと稲刈りは特別の日、いわばハレの日といってよかった。
さて、今の時代の田んぼに戻ろう。
先日、田植えを済ませたばかりの田で、巧く植えられなかった箇所の補修をしているのであろうか、田のなかを往来して、所々で稲をいじっている人がいた。
昔なら、この後しばらくすると、次々に生えてくる雑草との闘いが炎天下のもとで続いたものだが、いまはそれも薬で処理しているようだ。
むむ?怪しげな影が・・・・
はがきを出しに行ったついでに、改めて田を眺めてみた。
まだ頼りなげな稲の赤ちゃんたちが、田んぼに散りばめられたまま、いくぶん戸惑ったように風にそよいでいる。
これが、秋には下の写真のようにたわわに実をつけるとは信じがたいほどだ。
こうした物事の変化を、アリストテレスは「潜勢態」から「現勢態」という言葉で説明している。
ようするに予め潜んでいる力が現実となって現れるということだが、その過程は予定調和的にいつもうまくゆくわけではない。
稲の場合にしたって、自然の、あるいは人為による環境の変化で必ずしも実りが保証されているわけではない。また、実ったところで、豊作、不作の差異は免れがたい。
この「潜勢態」から「現勢態」へという捉え方は、「必然性」と「偶然性」、あるいは「存在者と存在の存在論的差異」などという問題とも関連してきて面白いのだが、ここまで来るとご隠居さんの衒学趣味といわれそうだから、このへんでやめておこう。
何はともあれ、このひ弱で危なっつかしい苗たちが立派に育って、秋には一面の黄金の波となって「現勢」することを祈っている。