小澤征爾氏が体調不良のため一年間音楽活動を停止するというニュースが伝えられました。寂しいし、少し心配でもあります。
油の乗り切った氏の指揮を目の当たりにしたのは1991年、モーツアルトイアーのザルツブルグでのことです。まだ、56歳で髪も黒々としていた氏は、その折、当時の本拠であったボストン交響楽団を引き連れて、アメリカの現代音楽家の小品、『セントラルパーク・イン・ザ・ダーク』とベートーヴェンの『八番』、それにバルトークの『管弦楽のための協奏曲』を演奏したのでした。
若き日の小澤征爾氏
上に「目の当たりにした」と書きましたが、ほんとうに目の当たりだったのです。それは、私の席が最前列のしかも端から三番目ぐらいのところだったからです。音楽を聴くにはけっしていい場所ではなかったのですが、良い点は小澤氏が演奏を終えて袖に引っ込む際、私のホントに目と鼻の先2~3メートルのところを通るのです。
このボストン交響楽団のコンサートは、オケ三つ、オペラ二つのザルツブルグでの音楽三昧のうち最後のものでした。それで多少の慣れと、これで最後だという勇気が湧いたせいか、何度目にかブラボーという拍手のなかを引き上げてくる小澤氏に、日本語で声を懸けたのでした。
不思議なことに、そのときなんと叫んだのかはまったく覚えていません。しかし、しかしです、それに小澤氏が反応してくれたのでした。
ウィーン国立歌劇場
いわゆるパーティ効果でしょうか、盛大な拍手と歓声のなか、私の日本語の叫びが氏の耳に達したのです。そして明らかに私の方をみて軽く会釈をしてくれたのです。思わず胸が高鳴るのを覚えました。
20年前の私はけっこうミーハーだったのですね。え?今ですか?今はその上のソーラー・システムです。
先日の日記で、カセットデッキ内蔵のテレビを処分するにあたって、カセットに記録したオペラなどを徹夜で聴いたと書きました。
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20120303
三本のオペラをたてつづけに観たのですが、その内の一本が、ザルツブルグでライブを見た一年後(1992年)のウィーンで、ウィーン国立歌劇場管弦楽団・同合唱団を率いた小澤氏が振る『スペードの女王』(プーシキン原作・チャイコフスキー作曲)でした。
私がヴィデオで観たのと同じ舞台の映像(『スペードの女王』)
それを観てから一週間もしないうちに今回の活動休止宣言に接したわけです。
今年のサイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)ではオネゲルの劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を振ることが予定されていたようですが、これは指揮者を変更して上演されるようです。
考えてみたら私より3歳年上なだけなのです。もっとも私のようにノンベンダラリンと生活しているのに比べると、何倍もハードな生き様だろうとは思うのですが…。
いずれにしても、ザルツブルグで見せてくれたあの笑顔を思い出しながら、氏の完全復帰をつよく願わずにはいられないのです。
油の乗り切った氏の指揮を目の当たりにしたのは1991年、モーツアルトイアーのザルツブルグでのことです。まだ、56歳で髪も黒々としていた氏は、その折、当時の本拠であったボストン交響楽団を引き連れて、アメリカの現代音楽家の小品、『セントラルパーク・イン・ザ・ダーク』とベートーヴェンの『八番』、それにバルトークの『管弦楽のための協奏曲』を演奏したのでした。
若き日の小澤征爾氏
上に「目の当たりにした」と書きましたが、ほんとうに目の当たりだったのです。それは、私の席が最前列のしかも端から三番目ぐらいのところだったからです。音楽を聴くにはけっしていい場所ではなかったのですが、良い点は小澤氏が演奏を終えて袖に引っ込む際、私のホントに目と鼻の先2~3メートルのところを通るのです。
このボストン交響楽団のコンサートは、オケ三つ、オペラ二つのザルツブルグでの音楽三昧のうち最後のものでした。それで多少の慣れと、これで最後だという勇気が湧いたせいか、何度目にかブラボーという拍手のなかを引き上げてくる小澤氏に、日本語で声を懸けたのでした。
不思議なことに、そのときなんと叫んだのかはまったく覚えていません。しかし、しかしです、それに小澤氏が反応してくれたのでした。
ウィーン国立歌劇場
いわゆるパーティ効果でしょうか、盛大な拍手と歓声のなか、私の日本語の叫びが氏の耳に達したのです。そして明らかに私の方をみて軽く会釈をしてくれたのです。思わず胸が高鳴るのを覚えました。
20年前の私はけっこうミーハーだったのですね。え?今ですか?今はその上のソーラー・システムです。
先日の日記で、カセットデッキ内蔵のテレビを処分するにあたって、カセットに記録したオペラなどを徹夜で聴いたと書きました。
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20120303
三本のオペラをたてつづけに観たのですが、その内の一本が、ザルツブルグでライブを見た一年後(1992年)のウィーンで、ウィーン国立歌劇場管弦楽団・同合唱団を率いた小澤氏が振る『スペードの女王』(プーシキン原作・チャイコフスキー作曲)でした。
私がヴィデオで観たのと同じ舞台の映像(『スペードの女王』)
それを観てから一週間もしないうちに今回の活動休止宣言に接したわけです。
今年のサイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)ではオネゲルの劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を振ることが予定されていたようですが、これは指揮者を変更して上演されるようです。
考えてみたら私より3歳年上なだけなのです。もっとも私のようにノンベンダラリンと生活しているのに比べると、何倍もハードな生き様だろうとは思うのですが…。
いずれにしても、ザルツブルグで見せてくれたあの笑顔を思い出しながら、氏の完全復帰をつよく願わずにはいられないのです。