孤独であること、それは世界、ないしは世の中との交感の可能性が絶たれているのではないかという時生じるのだと思います。
ロビンソン・クルーソは言葉としては孤独を語っていますが、世の中への回復を希求している限り、あるいはまた、フライディとの交流をもった限り、本質的な孤独感から免れていたのではないでしょうか。
もちろん寂しさを感じたことはおおいにあったでしょうが、それは世の中との繋がりを前提としたものであり、孤独感ともまた違うものではないかと思うのです。
孤独感とは自分が世界や世の中と隔絶されているのではないかという感覚ですから、それはロビンソン・クルーソのように空間的に隔絶されているということともまた違うようです。
したがってこれは人混みのまっただ中においても起こりえます。例としてはふさわしくないかも知れませんが、小林秀雄が道頓堀の雑踏の中でモーツアルトの40番の旋律を聴いたようにです。
よく文学青年や哲学青年(?)が孤独感を訴えることがありますが、たいていの場合これは、自分が共同存在にどっぷり依拠しているにもかかわらず、その孤高をアピールするためのものに過ぎません。
孤独感はそうした有り様の選択とは無関係に不意に襲うものです。
私の経験でいえば、結構乗客の多い夜汽車の中で、不意に、この人達が形成している共同社会と私は隔絶されているのではないかという思いが襲い、世界が白々しいものに思えてしまったことがあります。
それは凍りつくような時間でしたが、私がこの世に生まれ、複数の人々と交わる中でおのれを形成し、やがてここを去るまでその共同体に属しているのであり、その各メンバーもまたそうして私とクロスする時間と空間を共有しているのだと思い直すにいたり、そのよそよそしい状況から抜けだしたことがあります。
例えどのような隔絶感の中にいようとも、それ自身が共同存在の中の出来事であることは否めないような気がします。
したがって孤独というありようも、また、共同存在の中でこそ可能なので、人間以外の存在者にはありえない状況でしょう。