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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【告白】ペットに対する中途半端な気持ち

2009-04-04 03:59:28 | よしなしごと
 しばらく前のことです。10日ぐらい前かなぁ。
 岐阜駅と地続きの高架下にある、市立図書館分館へ行きました。
 そのついでに、岐阜駅の東南に位置する清水緑地(通称清水公園)を散歩しました。

 

 その折りの風景です。
 最初の三枚は、まだ若そうな犬と飼い主との微笑ましい有様です。
 この写真でその片鱗がお分かりいただけると思うのですが、この犬と飼い主との信頼関係というか通い合っている様というか、それらがひしひしと伝わってくるのです。
 こんな様子を見ると、人々がペットを愛する様子が分かるような気がします。

 

 私はというと、若くしてはじめて飼った猫にまだ月賦(古いいい方だなぁ、ローンといいなさい)が残っていた家具をめちゃくちゃにされて以来猫は敬遠し、その後飼った犬と三代にわたって死別してからというもの犬とも縁がなく、以後、ノン・ペット状態なのですが、そのせいかペットへの偏愛には比較的醒めた視線を向けています。

 
 
 そんな私ですが、この光景にはいささか興味を持ちました。この犬の飼い主に対する十全な信頼感、この飼い主の犬に対する絶対的な庇護と偏愛とも思える眼差し、それは羨ましいほど満ち足りた関係なのですが、同時にある種の不安をも感じてしまったのです。

 それは、この関係はある種、閉鎖されたものではないか、飼い主のなかには満たされざる現実との軋轢があり、それを犬に対する支配と擁護という関係に投影しているのではないかといった不安なのですが、考えてみればそれはあらぬ深読みのようなもので、当事者にとっては全く余計なお節介でしょうね。

 
              陽だまりでは鳩たちが

 なぜそんな余計なことを考えるかというと、昔の犬や猫を飼うという風習と今日のそれとはいささか趣を異にするように思うからです。昔といってもそんなに古いことではないのですが、私の少年時代(あ、やはり古い、半世紀前だ)には、ペットはもっと自然で淡白なかたちで私たちの回りにいたような気がするのです。
 いつの間にか居付いた名もない犬や猫など、それらは今日のように溺愛されることもなく、また、疎んじられることもなく、人間の残飯を与えられながら、人間の生活の周辺にごく自然にいたように思うのです。
 そして、その方がペットたちも、そしてその飼い主たちも自由であったような気がするのです。

 
   高架上を電車が通りかかっていたらもっと良かったのにとあとで気づいた

 今日、ペットを可愛がっている人たちを非難しようとするわけではありません。
 ただ、かつてのペットに関する人々の姿勢と今日のそれが微妙に異なっているように感じているのは事実です。
 おそらくこれは、ペットを飼う余裕もなく根気もない私のきわめて偏った考察なのでしょうね。

 


コメント
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