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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「山桜」にまつわる歌とお話

2009-04-15 02:47:21 | 花便り&花をめぐって
 当地では、終わりかけのソメイヨシノが昨日の雨に打たれて幾分無惨な姿をさらしています。この間まで感嘆の声を上げて見上げていた人も、もう見向きもしません。
 ソメイヨシノは人里近くにあるのでそれなりに目立つのですが、日本古来の野生の桜、山桜は山の稜線近くにぽつんとあったりします。

 
           山桜 ネット上の植物図鑑から拝借

    もろともにあはれと思へ山桜花より他に知る人もなし

 この歌は、平安後期の歌人・行尊によるもので、百人一首ににも採られています。
 この歌の情景はよく分かります。かつて、渓流にアマゴやイワナを追いかけていた頃、釣りに疲れてふと目を上げると、対岸の山並みのなかにぽつんとそれが咲いていたりしました。「あ、あんなところに桜が」と思うのですが、ということは花でも咲いていない限りそこに桜の木があることすら気づかないわけです。

 もっともこの歌は、そうした情景を借り、「お前のことをしみじみと思う私の心を分かって欲しい山桜よ」といった詠嘆や願望の意味もあらわしているようです。

 
              私の家の桜ん坊が実る桜

 ついでながら、かの本居宣長が詠んだ

    敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

 も有名で、とりわけ戦前においては、その散り際の潔さをを賛美したものとし、それをもって神風特攻隊の部隊名を、「敷島隊」、「大和隊」、「朝日隊」、「山桜隊」と名付けたようですが、これは軍国時代のきわめて恣意的な解釈によるもので、この山桜は朝日に匂っているのであって、その散り際などとは全く関係がないのです。
 むしろ朝日に照り輝く素朴な山桜の生命力をこそ歌ったもので、愛国心や戦争での散華などとも一切関係ないのです。

 
                   紅桜?

 これは私の解釈ではなく、三重県の松阪市にある、本居宣長記念館の主任研究員・吉田悦之氏の見解でもあります。

 だいたい、本居宣長の「やまとごころ」は「からごころ」に対比される言葉で、唐様の「形而上学的」屁理屈にたいし、ありのままの現象をそれとして重んずる立場をいったのであり、そのどこにも愛国心やましてや戦の庭で散れというような意味合いは含まれていません。

 山桜にせよその他の桜にせよ、花は「なぜなし」に咲くのであり、それに勝手に恣意的な装いをもたせ、多くの若者たちを散華へと追いやったかつての歴史を思う時、今さらながらその浅薄な美意識と、にもかかわらずそれをもって人々に死を強要したおぞましさとを思わずにはいられません。

 
             これは夕日に染まるソメイヨシノ

 私も、そして私に続く世代も、山の峰近くぽつねんと咲く山桜を、何の忌憚もなく眺めやりたいものです。

コメント (3)
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