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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「津軽海峡」ではない「冬景色」

2008-12-17 17:39:56 | 写真とおしゃべり
 12月も半ばだというのに暖かい日が続いている。
 おかげで、陽のある間は自転車を駆ってあちこちへ行くことが出来る。
 前にも述べたが、車とは目線が違うので、風景が堪能できる。
 おまけに、好きなところで止めて写真など撮れる。

    

 冬は灰色に比喩されたりするが、決してそうではない。
 冬には冬の色彩があり、しかもそれは、春の華やぎや夏の強烈さ、秋の少し取り澄ましたものとも違った、どこか懐かしくも優しい色彩なのだ。
 それは多分、陽射しが傾いていてそれ自身からくる柔らかさのゆえだろう。いってみれば、冬の陽射しそのものが既にしてある種のフィルターの作用をし、その中に様々な風景を浮かび上がらせるのだ。
 その意味では風景はそこにある「もの」ではない。
 そのものを包み込む幾多のファクターの集合としてそれらは私たちに受容される。

    
 
 加えて、受容するこちら側のまなざしが作用する。
 そのものとの関わりの歴史、そこから得られる連想や追憶の諸断片、それらが一体となって私の中に特定の風景を醸し出す。
 いわば、私の中にもフィルターがあって、しかもそのフィルターはまことにもって気ままで、どんなに大きく光り輝いていてもそれを撥ねつけてしまったり、あるいはどんなにささやかで目だとなくとも鮮明な像を結ぶこともある。

 

 私たち一人一人に、風景がそのようなものとして与えられているいるとしたら、少しへそ曲がりないい方をするならば、あなたと私は同じ場所で同じアングルに向かい合っていても、同じ風景を見ることは出来ない。
 むろん、相互にその受容したものを表現し合い、受け止め合うことによって想像上での接近は可能である。しかしそれは「接近」の範囲に止まる。どこまで接近が可能かは、表現する側と受容する側との相互の関係によって決められるのだろう。

    

 いくぶん飛躍するが、世界もまたそのようなものとして私たちに与えられていて、しかもその世界は私たちに直接間接に作用するのだから、風景以上にそれを巡る対話や摺り合わせが必要なのだろう。
 これについて書こうとしたが、既にして充分脱線しているのでひとまずここらで打ち切る。

  本当はこれに続けて、倍ぐらいのものを書いたのだが・・。
  これを書き始めたのは昨日だったが、今日は雨もぱらつき寒かった。


コメント (1)
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