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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

解体エレジーと新しく生み出されるもの

2008-12-02 06:01:56 | 想い出を掘り起こす
 なぜか解体現場に興味がある。
 別にそれほどマニアックではないのだけれど、少なくとも建設現場よりも興味がある。ましてやそれが、日頃慣れ親しんできた建造物だったりしたらなおさらだ。

 この間も、しばしば通る箇所で解体作業をしていたので、早速カメラを構えていたら現場の責任者とおぼしき人がとんできて、「何か不都合がありますでしょうか」と訊いてきた。

 どうやら私がクレーマーで、証拠写真を撮っていると誤解されたようだ。
 「いやぁ、最近は壊すにも作るにも、いろんなクレームがあって大変なのですよ。ホラ、壊してるところに絶えず水を注いでいるでしょう。ああしないとほこりが舞い上がって、うちの洗濯物が汚れたけどどうしてくれるんだ、部屋に埃が入ったから掃除に来い、などと苦情が入り、中には脅迫まがいのものもあるのですよ」
 というのが彼の説明。

 話しているうちに誤解も解けて世間話になったのだが、「この後ここは何になるのですか」という私の問いに、「さあ、私どもは壊すだけですから詳しいことは知りませんが、もう少し高層のマンションになるのでは」との返事。
 そうなんだ、壊す人と、その後に作る人とは当然違うんだ。

 

 ところで、なぜ解体現場に興味をそそられるかであるが、理由は単純である。
 これはボケが始まった私だけの事情であろうが、古いものが壊され、新しいものが建ってしばらくすると、前にここに何があったのかをさっぱり思い出せないのだ。

 現に今、目の前にあるものの存在感は強烈である。そしてその存在感の前に、かつてあったものの記憶は完全に埋没してしまうのだ。

 どうやらこれは、建造物ばかりの問題ではないようだ。
 例えば、歴史においてもそうである。
 今日の繁栄した日本の姿(むろん不安定な要素を含むのだが)からは、戦前戦後のあの惨めなありよう、そしてそこへと導いた偏狭なイデオロギーを想起することは困難である。

 そこに、歴史修正主義が生まれる余地がある。
 わが同胞がそんな残虐に荷担するはずがないという主張には、出来れば私も同調したい。私たちの父祖は、その市民生活にあっては今の浮ついた世相より遙かに謙虚で、骨身を削って働き、四囲に対する思いやりを欠かさなかったのだ。
 その彼らがという思いはある。
 しかしそれは、解体された建物のようにもはやその痕跡は希薄だが、実際にそうであったのであり、それを否定するわけにはゆかないのだ。

 解体現場には様々な顔がある。
 既存ものを無にして大地へ返還する動き、過去にまつわる一定の歴史を無として計上する動き、そして、新たな劇場として人々が活躍する場所のための地ならし。

  

 新しきものの登場、それには解体が伴うことは事実である。
 私が解体にこだわるのは、新しく生まれるものへの賛歌であろうか、それとも失われゆくものへのノスタルジーであろうか。

 何はともあれ、解体現場は、建設現場よりも遙かに絵になりやすい。
 少なくとも私にとっては・・。
 


 






コメント (3)
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