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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

パタゴニア・ピューマ・そしてトランスナショナル

2008-09-13 02:55:41 | アート
ここに掲載する写真は、全て写真家野村哲也氏の作品であり、掲載に当たっては彼の了解を得たものです。従いまして、別途転載などはご遠慮下さい。

 珠玉の写真には珠玉の文章こそふさわしと思うのですが、そんなものが書けるはずがありません。

 ここに紹介する写真家の野村哲也氏とはもう10年以上前の付き合いなのですが、最初会ったとき、彼は20代の前半だったのですが、私は既に初老の域に入っていました。
 しかし、彼の中には、外へと広がろうとするエナジーのようなものが沸々と感じられました。

 
  以下の三枚の写真は、彼が現在住んでいるチリの近くにあるオソルノ火山
   どこかで見た感じでしょう。そうです、富士山にそっくりなのです。
   日本人は富士=不二として世界遺産にしたがっていますがこんな山は
   世界にごまんとあり、それらの方が実は清純さが保たれているのです


 あるとき、ついその前になくなった動物写真家の星野道夫氏について彼と会話を交わしたことがあります。
 ベテランである星野氏の不注意を責める言説に対し、お祭り騒ぎのテレビクルーから離れ、翌日のエスコートを成し遂げるため、彼の単独睡眠行為は必要なものであったと哲也氏は涙ながらに抗議していました。
 私は、それに共感しました。

 
          
 彼の処女写真集が出版されました。
 「ペンギンのくれた贈り物」というそれは、彼の写真家としての実力はもちろん、私の知り合いたちの協力によって達成されたものでした(風媒社刊行)。

 この写真集には思い出があります。  
 既に老人性痴呆になっていた私の義母が、これを繰り返し繰り返し観ていたことです。
 彼女はもはや故人ですが、最後にその目に焼き付いたものは哲也氏の写真ではないかと思っています。

 

 そんなこともあって、彼との交流が始まり、通信が送られてくるようになりました。
 写真にキャプションや文を付さねばならない彼にとって、文章は必須でした。
 しかし、最初の頃の彼の文章は、名詞や形容詞、動詞が単独に踊るのみで、私は彼に、「細切れのうどんを食っているようだ」と酷評をしたことがあります。
 要するに、すすーっとすすれないのです。

 
          これと次もパタゴニアの山々
            

 しかし、今は違います。
 その後彼は、写真集「悠久のとき」(中日新聞社)や「たくさんのふしぎ」(福音館書店)を始め、雑誌「岳人」や、航空会社の機内誌のグラビアを飾るなど、文章の面でも長足の進歩を遂げています。
 ほどよいつゆを付けて、ツルツルーッとすすったり、噛みしめたり出来るようになったのです。
 あちこちで講演などをして回ったことも、文章の構成力を養うのに役立ったのかも知れません。

 
   
 最初、彼に会ったとき、外へ広がろうとするエナジーを感じたと書きましたが、それは当たっていたようです。
 彼は世界を股にかけて活躍しています。それらはほとんど、南米、アラスカ、アフリカなど生々しくもダイナミックな自然が残っている場所です。
 写真の守備範囲もどんどん広がっています。動物から、土着の人々、雄大な自然などなどです。

 
             パタゴニアの狐

 彼が世界に分け入り、また世界が彼を受け入れてくれるのは、彼の中の「郷に入れば郷に従う」の精神だと思います。
 偏狭な日本の文化や生活習慣に縛られることなく、その土地のリズムの中にす~っと溶け込む能力があるようなのです。しかもそれは、その土地の状況に自分を合わせるという消極的なものに止まらず、自ら進んでその土地の魅力を見出しそれを十全に楽しんでしまうという羨ましい能力です。

 
    何らかの事情で親とはぐれてしまった野生動物の保護施設での
              ピューマの赤ちゃん

 そんなこともあって、日本が狭すぎるこの男は、いま、愛妻とともにチリはパタゴニア地方のオソルノ火山に近いロッジに住んでいます。もちろんここは彼の終の棲家ではなく、単にベースキャンプに過ぎないようで、ここを起点に常時あちこちと飛び回っています。
 当分ここに落ち着くのかなぁと思っていたのですが、最近の彼の通信によると、次の居住地候補として南アフリカを既にノミネートしているようです。

 最近彼と、こんな話をメールで交わしました。
 「インターナショナル」という言葉は言ってみれば「ナショナル」を背負った者同士がお互いにうまくやって行くといったイメージなのですが、彼の場合には、そうしたナショナルにもこだわらず、いわばトランスナショナルなイメージがあるのです。そんな話の中から、世界に国境というものがあること自体が、実は不思議で不自然な事実だということで意見が一致しました。

 
  猫の仲間には違いないのだが赤ちゃんにして既に野生の悲哀を宿している

 私はあまり、自分の生まれた時期について不満を持ったことはありません。この時期に生きたからこその私であり、いろいろ悔やむことはあっても、それも含めて私を生きてきたと思うからです。
 しかし、彼を知ってしまうと、しばしば、「ああ、もう半世紀後に生まれたかったなぁ」と思ってしまうのです。
 
 写真はそれを撮る者のまなざしです。
 私も写真が好きですが、私のようにまなざしが濁ってしまった者には凡庸な写真しか撮れません。
 しかし、彼の写真は素敵です。
 それはテクニックを越えて、彼のまなざし、彼と世界とが向き合っているありようを現しているからです。

 




 





コメント (4)
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