六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

悲惨を越えたもの 「焼き場に立つ少年」考

2008-09-01 14:32:08 | インポート
 ここに掲げるのは、長崎の爆心地を撮影した米カメラマン、ジョー・オダネル氏が著した『トランクの中の日本』(1995年刊行 その後しばらく絶版になっていたが今年復刊 小学館)の中でもっとも著名な写真です。
 おそらく、原爆の後遺症などで亡くなった弟を背負って焼き場に現れた少年の写真です。
 
 「その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血が滲んでいるのに気がついたのは。少年があまりにきつく噛みしめている為、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりと踵(きびす)を返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。背筋が凍るような光景でした。」
 オダネル氏は、弟を荼毘に付して帰る少年をこう描写しています。

     
 
 しかし、私には、この写真が現しているものは、単に、原爆や戦争の悲惨のみではないように思えて仕方がないのです。
 むろん、それらを否定はしません。しかし、そうした詠嘆の内にはおさまりきらないある余剰、誤解を恐れずにいえば、少年の表情のうちにある超越的なものをも感じずにはいられないのです。
 
 この少年の異様な緊張感は私たちにひしひしと伝わってきます。
 どうしてでしょうか。それは、彼が見事な「キヲツケ」をしていたからです。
 あの姿勢を保つということは、当時、公の場や緊張感のある場合、常に私たちに強いられたものであり、それ故に、それは習慣化し、号令をかけられなくともそうした場では自動的にそうした姿勢をとったものです。
 なお、オダネル氏が「少年はくるりと踵(きびす)を返し」と描写しているのは、キヲツケなどとともに教えられた「マワレミギ」ではなかったかと思うのです。

 よく写真を見て下さい。彼は兄弟を背負うという不自然な姿勢にもかかわらず、懸命に直立し(少し前傾しているのは背負った重みとのバランスのためでしょう)、足のかかとを付け、足先は約60℃に開き、手は真下に真っ直ぐに伸ばして、ズボンの脇の線に中指を添わせるという、まさに当時定められたキヲツケの姿勢を寸分崩すことなく実行しています。
 
 私はそれを見たときに、涙が溢れそうになりました。
 彼は、私より3~4歳年長で、当時の軍国少年(ないし幼年)として、同じような環境下にあったはずです。
 それがあの、「キヲツケ」に凝縮されて表現されているのです。
 しかし、キヲツケの意味はそれに止まるものではありません。
 
 当時、学校などでの訓話の中、「かしこくも」という言葉が出た途端、総員がさっとキオツケをしなければなりませんでした。「かしこくも」は枕詞で、必ず天皇や皇室への言及があったからです。
 そのキオツケを、彼は見事にやっているのです。
 
 その事実に気づくと、この写真に秘められたある別の局面が開かれるのではと思うのです。
 そしてそこに、先に述べた「戦争の悲惨さ」には収まりきれない余剰が表現されているのではないかと思うのです。 
 
 それは、彼が受け、私もその片鱗を注入された、「一億総玉砕をしても、国体、つまり天皇陛下を中心とした体制を守り抜け」という教育の存在です。こうして注入されたものは、容易に消滅はしません。
 ましてや、敗戦後幾ばくもしない時期の少年にとってです。

 彼はなおかつ、陛下に殉ずる少年として、キヲツケの姿勢を崩してはいないのです。
 むろんそれは、失った兄弟への哀悼であるかも知れません。
 しかし、同時に、彼は自分の失ったものを、陛下への供物として捧げに行ったように思えてならないのです。
 悲哀と哀悼の中にありながら、それを超越した凛然としたプライド・・。 

 この少年の表情にあるたんなる悲哀や諦観ではない毅然としたもの、それはこうしたバックグラウンドにおいて始めて可能になったのではないでしょうか。

 このとき彼は、国民の犠牲おびただしき中で自らの延命を図った天皇家よりも、そして、負け戦の中で今後の稼ぎを計算し始めた大多数の国民よりも、はるかに崇高な地点に立っていたように思えてしょうがないのです。
 私にとって、この写真の意味は、このキヲツケにこそあるのです。

  国民が明日の稼ぎを考えること自体を否定するものではありません。
   また、少年の中に「崇高さ」を見ることの危険性も承知しています。


 


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする