気になっていた映画『ぐるりのこと』を観ました。
ぐるりとは「周り」のことです。
家族、親族、親子兄弟、職場、近所などなどです。
もっと大きく輪を広げると、世間とか社会とかとの関係全体ということになるでしょうか。
しかし、それがそれ自体として問題であるわけではありません。
問題はそれと否応なしに関わらずにはいられない私たちの方にあります。
少し難かしいいい方をすれば、私たち自身がそうした諸関係の総体なのであり、私たち一人一人は、それぞれ、その結び目のひとつなのかも知れません。
従って、「ぐるりのこと」とはそうした周りでありながらその実、内面化された周りと私の関わりの話に他なりません。
冒頭近く、週に三回のセックスを予定通り進めようとする若い奥さんの登場に、これはいささかパラノイック(偏執的)だなあと心配しました。
彼女はけっして淫乱ではなく、「きちんとしなければ」が口癖の潔癖症なのです。
周辺との関係を「きちんとする」という彼女の潔癖症は、それでも、普通の条件下では「きちんとした人」で済まされてゆきます。
そのバランスが崩れるのは、子供ををなくすという悲劇に見舞われたことに依ります。
その悲劇を抱えたまま「ぐるり」とうまくやって行くには彼女は繊細すぎます。
それはある種の鬱症状とし、またあるときには自傷的な振る舞いとして、「ぐるり」との疎外感はいっそう深まってゆきます。
要するに、自分が「きちんとしていなかった」からではないかという自責の念から逃れがたいのです。
ここで、今まであえて述べなかったその夫である男性について触れねばならないでしょう。
彼は幸いにして、彼女のようにパラノイック(偏執的)ではなく、逆に、どこか飄々としてこだわらない、悪くいえば芯の通らない、よく言えば抱擁力のある存在なのです。
前半では、「きちんとしない」ことにより、彼女の批判の的であった彼が、後半においてはそのことによって、救いや脱出を支えることになるのです。
彼がもし、彼女同様にパラノイックな潔癖症であったら、この関係は悲劇以外ではなかったでしょう。
別に彼が偉いわけではありません。彼のその有り様そのものがよかったのでしょう。
感情の起伏をあまり表現しない彼の、スケッチブックに描かれた子供への思いを知ることにより、彼女の中で再び何かが繋がり始めます。
全く性癖を異にする(結果的にはだからよかったのだが)二人が、深いところで結び直される契機がここにあります。
もちろん、話は一筋縄では行かず、紆余曲折はあるのですが、彼女は「ぐるりのこと」との関係の再構築を成し遂げます。
物語はこうして、さしたるクライマックスもなく淡々として進むのですが、しかし、この映画では10年の歳月が流れているのです。
脚本の優れている点は、二人の周辺に配置された人々の経過(たとえば、不動産業の兄)を挿入することにより、その「ぐるり」がきわめてリアルな歴史性を持つものであることを逃さなかったことです。
さらにいうならば、その夫を法廷画家(TVなどで、法廷の被告をスケッチした映像が流れるあの画家です)に配置することにより、主人公たちの、そして私たちの、この間の歴史上の変遷をきわめて具体的に描いていることです。
そこには様々な事件の被告が登場します。
オウムを思わせるもの、池田小事件を思わせるもの、幼児連続殺人を思わせるもの、東南アジア女性を商品にしたセックス産業、政治家や官僚の収賄事件などなどがエピソード的にさりげなく登場するのです。
こうした状況もまた、私たちにとっては「ぐるりのこと」なのです。
主人公やその周辺が、そうした世間の変貌に直接対峙することはありませんが、にもかかわらず、社会状況のこうした変化は、彼らの、そして私たちの「ぐるり」を形成しているのは間違いないし、私たちのものを観る観方そのものを揺さぶっているのです。
かくしてこの映画は、観方によっては20世紀から21世紀に及ぶヒストリーを背後に控えもったものともいえます。
そしてそれが、この映画をやや硬質のホームドラマの域に留めることなく、広く普遍性を持った、そしてまた否定しがたいリアリティをもったものにしているといえます。
おそらく、近年の邦画でのおおきな収穫ではないかと思うのです。
ぐるりとは「周り」のことです。
家族、親族、親子兄弟、職場、近所などなどです。
もっと大きく輪を広げると、世間とか社会とかとの関係全体ということになるでしょうか。
しかし、それがそれ自体として問題であるわけではありません。
問題はそれと否応なしに関わらずにはいられない私たちの方にあります。
少し難かしいいい方をすれば、私たち自身がそうした諸関係の総体なのであり、私たち一人一人は、それぞれ、その結び目のひとつなのかも知れません。
従って、「ぐるりのこと」とはそうした周りでありながらその実、内面化された周りと私の関わりの話に他なりません。
冒頭近く、週に三回のセックスを予定通り進めようとする若い奥さんの登場に、これはいささかパラノイック(偏執的)だなあと心配しました。
彼女はけっして淫乱ではなく、「きちんとしなければ」が口癖の潔癖症なのです。
周辺との関係を「きちんとする」という彼女の潔癖症は、それでも、普通の条件下では「きちんとした人」で済まされてゆきます。
そのバランスが崩れるのは、子供ををなくすという悲劇に見舞われたことに依ります。
その悲劇を抱えたまま「ぐるり」とうまくやって行くには彼女は繊細すぎます。
それはある種の鬱症状とし、またあるときには自傷的な振る舞いとして、「ぐるり」との疎外感はいっそう深まってゆきます。
要するに、自分が「きちんとしていなかった」からではないかという自責の念から逃れがたいのです。
ここで、今まであえて述べなかったその夫である男性について触れねばならないでしょう。
彼は幸いにして、彼女のようにパラノイック(偏執的)ではなく、逆に、どこか飄々としてこだわらない、悪くいえば芯の通らない、よく言えば抱擁力のある存在なのです。
前半では、「きちんとしない」ことにより、彼女の批判の的であった彼が、後半においてはそのことによって、救いや脱出を支えることになるのです。
彼がもし、彼女同様にパラノイックな潔癖症であったら、この関係は悲劇以外ではなかったでしょう。
別に彼が偉いわけではありません。彼のその有り様そのものがよかったのでしょう。
感情の起伏をあまり表現しない彼の、スケッチブックに描かれた子供への思いを知ることにより、彼女の中で再び何かが繋がり始めます。
全く性癖を異にする(結果的にはだからよかったのだが)二人が、深いところで結び直される契機がここにあります。
もちろん、話は一筋縄では行かず、紆余曲折はあるのですが、彼女は「ぐるりのこと」との関係の再構築を成し遂げます。
物語はこうして、さしたるクライマックスもなく淡々として進むのですが、しかし、この映画では10年の歳月が流れているのです。
脚本の優れている点は、二人の周辺に配置された人々の経過(たとえば、不動産業の兄)を挿入することにより、その「ぐるり」がきわめてリアルな歴史性を持つものであることを逃さなかったことです。
さらにいうならば、その夫を法廷画家(TVなどで、法廷の被告をスケッチした映像が流れるあの画家です)に配置することにより、主人公たちの、そして私たちの、この間の歴史上の変遷をきわめて具体的に描いていることです。
そこには様々な事件の被告が登場します。
オウムを思わせるもの、池田小事件を思わせるもの、幼児連続殺人を思わせるもの、東南アジア女性を商品にしたセックス産業、政治家や官僚の収賄事件などなどがエピソード的にさりげなく登場するのです。
こうした状況もまた、私たちにとっては「ぐるりのこと」なのです。
主人公やその周辺が、そうした世間の変貌に直接対峙することはありませんが、にもかかわらず、社会状況のこうした変化は、彼らの、そして私たちの「ぐるり」を形成しているのは間違いないし、私たちのものを観る観方そのものを揺さぶっているのです。
かくしてこの映画は、観方によっては20世紀から21世紀に及ぶヒストリーを背後に控えもったものともいえます。
そしてそれが、この映画をやや硬質のホームドラマの域に留めることなく、広く普遍性を持った、そしてまた否定しがたいリアリティをもったものにしているといえます。
おそらく、近年の邦画でのおおきな収穫ではないかと思うのです。