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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「差異」と「差別」と五人の殺人者

2008-07-01 03:55:02 | よしなしごと
 最近、差異について考えています。
 世の中にあるものたちはたいていというかすべからく差異をもっていて、そのおかげであるものが特定できたりします。だから、差異をなくしたら、私たちはある特定のものを取り出すことすら出来なくなるわけです。
 早い話が、私が私であるのは、私があなたではないからです。
 こんなあたりまえの事実でありながら、そうした差異ゆえに、抑圧や排除が行われてきたという事実があります。 
 
 たとえば人種や民族の差、職業の差、男女の差などにつき、人々はその差異に序列を付けるのが常でした。
 黒人や有色人種より白人が偉いとされ、同じ白人の中でも、ユダヤやロマは劣等とされました。肉体労働は頭脳労働の下僕であり、女性は社会的には一人前の人間としては認められませんでした。
 何も遠い昔のことではありません。それが制度として固定化されていたのはさほど昔のことではないのです。


 
    二階の窓からぼんやり外を見ていたらなにやら白いものが 
         木槿(むくげ)の花が咲いたのだ
    これから9月ぐらいまで私の目を楽しませてくれるだろう

 
 1945年以前、ナチスにとってはユダヤ人は殲滅の対象でしたし、1960年代まで、アメリカの南部では黒人は白人と同じバスにすら乗れませんでした。
 南アフリカの有色人種隔離政策(アパルトヘイト)が解除されたのは1990年代に至ってからなのです。
 職業については、「職業に貴賎はない」というきれいごとで、形だけの平等は歌われてきましたが、現在の日本やいわゆる先進国においては、3Kといわれる仕事はほぼ外国人に任され、その外国人を差別するという形が一般的なようです。
 
 男女間の問題については、日本で女性が初めて参政権を得たのは現行の憲法によるものであり、たかだか60年の歴史しかありません。さらに一歩突っ込んだ機会均等などについての実質はお寒い限りといえます。
 なお、日本の国会議員に占める女性の割合は10%台にやっと乗ったところで、明らかに低い水準であり、アジア、アフリカ諸国と大差ない(追い越されているところもある)し、さらには、宗教上の理由などで、極端に女性の人権が押さえられているアラブ諸国にも迫られているのが実情です。

 
               同じく木槿

 上に述べたような差異が差別に転じるようなことは、一見、次第に減少しつつあるように見えますが、実情はそれほど単純ではないようです。

 差異が差別に転じる要因はいろいろありますが、ひとつは単なる差異に序列が付けられることにあります。それらの序列は、伝統的な古い思考様式や、疑似科学などから素材を借り、単なる横並びの差異を縦並びの序列に編成します。
 序列の基準は様々ですが、現今においては、その人の持つ生産性のようなもの(それは獲得する貨幣量として換算されるのですが)が大きくものをいうようです。
 従って、肉体的にも精神的にも生産性を欠く人間は低いものとして、ある場合には邪魔者として隔離されたり管理の対象になります。

 そうした差異は本来はさほど歴然としたものではなく、ボーダーレスなものなのにもかかわらず、そこにはっきりした溝があるかのように考え、自分は常にその溝のこちらにいると思っている人がいます。しかし、その溝は決して確固としたものではなく、シチュエーション次第では、「こちらがわの」はずの私たちが、容易に「あちらがわ」に移行しうることがあるのです。
 心身の障害を持つ人や犯罪を犯した人も私たちと連続した、いわばボーダーレスな地点で共存しているのです。

 
     アイスクリームなどに乗ってくるミントの花です

 そればかりではありません。いわゆる「こちらがわのひと」や健常者(これってあまりいい言葉ではないですね)といわれる人がそのようであることは、一定程度の割合でそうでない人がいることによって、もっといえば、そうでない人を日々、再生産することによってそれが可能になっていることすらあるのです。
 現今のはやりでいえば、「勝ち組vs負け組」の図式がそれです。
 現在の世の中の仕組みが、必ず一定の負け組を生み出すことによって成り立っているとしたら、「勝ち組vs負け組」はいわゆる「自己責任」の問題ではなく、まさに構造の問題としてあると思うのです。

 
    この間載せたマサキに似ていますがこちらはモチノキの花

 それと関連するのですが、差別を固定して考える人は時間というものの作用を見ようとはしません。
 時間はかなり劇的に自分とそれを取り巻く状況を変化させます。
 まず状況の変化から見ましょう。ほんの少し前までは、男性が酔っぱらって女性を抱き寄せたりするのは宴席の戯れぐらいに思われていました。今では立派な犯罪行為です。
 街中をくわえたばこで歩くなんて風景もどこででも見られました。今や罰金刑です。

 状況が変わるばかりではありません。私たち自身が変わるのです。
 私はかつての職業柄、多くの人の相手をしてきましたが、結構親しく話を交わした人の中で五人の殺人犯を知っています。そのうち二人は、「あいつならやりかねない」と思われる人物でしたが、それとて、私が出会ったときにはすでに崩れていたのだと解釈できます。
 後の三人に関しては、「まさかあの人が」という人でした。
 後者のひとたちは、別に、悪い意図を隠していたわけではありません。本当に普通の人だったのです。

 そして、ここが肝心のところですが、後の三人はもちろん前の二人も含めて、自分がその当事者になる前には、世に報道される殺人事件を見て、「何もそんなことで人を殺さなくとも」と思っていたということです。
 にもかかわらず、彼らは殺人という行為へといざなわれたのです。

 
    花は地味でも蜜はうまいのだろうか。ミツバチがいっぱい

 私は別に、性善説をとなえようとしているわけでありませんし、彼らの倫理的責任を無視しようとしているわけでもありません。
 要するに、昨日まで「こちら側=人も殺さぬ人」であった私たちが、時間や状況の変化の中で、「あちら側=殺人者」へ転化する可能性はいくらでもあるということなのです。

 差異が差別へと転化する可能性についてのべるつもりがいささか脱線したようです。
 フランスのある哲学者は、「差異とは権力である」とか、「権力は偏在する」とかいっています。その意味は、権力とは、どこか私たちの外部にあって、一方的に私たちを抑圧してくるといったようなものではなく、差異があり、その差異に序列を付けるようなところでは、そしてそうする私たち自身がいるかぎり、権力関係は常にすでにあらゆるレベルで形成されつつあるということです。

 最初、これらとの関連で、SMAPと金子みすずに触れようとしたのですが、長文になりすぎるので次回に回します。










コメント (3)
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