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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「雑然」を考える  第二章

2008-06-20 01:11:48 | よしなしごと
 街が雑然としているということは、その街が多様性をもっている、あるいはその街で生活している人たちがある一元的なものに規定し尽くせない様々なあり方をしているということでしょう。
 ですから極端にいえば、そうした街を整然とさせるためには、ブルでもって街のすべてをいったん破壊し、更地にしたところで特定のコンセプトによる街を作り直すのが手っ取り早いのです。

 

 その場合、当然、その特定のコンセプトに一致しない要素はすべて放棄されますし、何よりも、それらの多様性を実現していた人々、かつての街の生活者たちが駆逐されることになります。
 日本中の「新しい街」には、そうした旧来の住人を駆逐することによって出来あがったところがたくさんあります。
 かつて問題となり、現在も進行中の、いわゆる「地上げ」はそうした動き連動したものに他なりません。

 

 そうした動きは、都市内の地域的分業化、機能上の分化などでやむを得ない場合もありますが、反面、その街の住民や生活者を排除して行われる「整然とした発展」というのはいったい何なんだろうとも思ってしまいます。
 「そして、誰もいなくなった」街の発展・・。

     

 その街の住民や生活者を中心に考えるならば、銀座や六本木や、あるいは名古屋駅前などをお手本としたその亜流を整然と実現するのではなく、その街が持っている生命力のようなもの、あるいはその可能性のようなものを発掘し育てる方向で考えるべきでしょう。

 

 整然は整然でどこかに任せておいて、雑然だといわれたら、その雑然の中にある魅力、あるいは雑然であることそれ自身、多様であること、様々な可能性に向かって開かれてあることを売りにする方法を見いだせればと思うのです。
 もちろん、言うは易し、行うは難しを承知の上なのですが・・。

 

写真は、近所の解体工事を撮ったものですが、イメージとして多少の関連はあるとしても、本文と直接の関係はありません。
 むしろ、壊れる途中の「雑然さ」が面白いでしょう。
 
 なお、この建物は、6月10日の拙日記に登場したものと同じものです。

  http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080610



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