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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ひとが死ぬということは・・(2)

2008-06-07 04:10:00 | よしなしごと
 人は死すべき者たちです。動物も生を終えますが、おそらく自分が死すべき者であるという自覚はないでしょう。
 人は、自分が死すべき者であることを「知って」います。しかし、これとて、そうした可能性があることを漠然と知っているのであって、日常的にそれを念頭に置いているわけではなさそうなのですが。

 それはともかく、人が死すべき者であること=可死性は疑い得ないようです。
 しかし、この可死性の現実化(要するに死)も人においては全くの単独な出来事ではなく、その共同存在というか複数性というか、そうした関係性のうちでの出来事のようです。

 

 たとえば、「殺すー殺される」という関係があります。
 殺人事件、戦争、抑圧、格差や貧困による死、事故死などがそれらで、この場合、私たちはその「殺すー殺される」の双方に代入可能です。これは、ホッブズのいう、自然状態における「万人に対する万人の戦い」にも似た図式といえます。

 そうした、「殺すー殺される」以外のいわゆる自然死もあるのではという反論もあるでしょう。
 かつては、「畳の上で死ぬ」がまっとうな死といわれたことがありますが、今日ではそれはきわめて少数の例だともいえます。
 しかし問題は、どこで死ぬかの場所の問題ではなく、いわゆる自然死の不可能性のようなものが一般的になっているのではないかということなのです。

 

 端的に言うならば、人はその死においても、管理されているということです。
 具体的に言えば、それは現在の医療技術とそれを包括した社会全体のシステムのうちにあります。

 現在の医療技術は、その治療、蘇生、延命などにおいて、絶大な力を持つに至りましたが、とりわけ問題は、人が終焉を迎えるに当たっての延命技術の問題です。この技術の進展は、かつてならとっくに死を迎えた者たちを生かすことができるようになりました。

 当然のこととして、そうした延命措置の中から、蘇生し、帰還しうる者たちには最大限の尽力が為されるべきですが、それが不可能な者たち、あるいはグレーゾーンにある者たちに関しての生死の判定、あるいは、延命措置の継続中止の判断は、死に行く者たち以外の者に託されるところとなりました。

 

 具体的にいえばそれは、医師の所見やアドヴァイスを受けた家族や親族の決断にゆだねられることになったわけです。もっともこの場合、医師のもたらす情報やアドヴァイスは強い影響力を持ちますから、その意味ではまた、医師もその決断に携わっていると見なされるべきでしょう。

 要するに、死に行く者たちの死は、死の可能性をはらみかがらも日常的にはそれと意識しない世人としての私たちの判断に委ねられるのです。
 そしてそこには、当然のこととして、死に行く者たちとは関わりない場でのエコノミーが作用します。それを、管理といってみてもいいでしょう。

 これが良いか悪いかを述べているのではありません。今日においては、これこそが人の死であり、その死はほとんどエコノミー(管理)のうちにあるという事実を述べているに過ぎないのです。

 

 これまで述べてきたことは、一般論に過ぎません。
 しかし、私自身が老母の末期に付き従いながらいるとき、論理的な整合性のみで事態を乗り越えられないところに追い込まれています。

 もはや後戻りできない決断の時が迫っているのです。
 私は当初、悔いの残らない決断をしたいと思い、日記にもそう書きました。
 しかし、今、それはある種の思い上がりだと思っています。
 あらゆる決断は、その背後に異なる決断や、不決断を含んでいるのであり、その意味で、自分の決断に「悔いのない」という保証を求めるのは、ある種の自己正当化に他ならないと思うのです。

 どう決断しようとも悔いが残る、にもかかわらず決断しなければならない、その逡巡のうちでの決断こそが本来の決断の重みなのでしょう。

 どう決断しても悔いが、そして母へのある種の罪悪感は残るでしょう。
 しかし、その重みこそ、私と母を繋いできた時間の重みなのだとひとまずは弁解しておこうと思うのです。

 

【キーワード】 *死すべき存在 *共同存在・複数性 *ホッブズ *生政治 *決断







コメント (3)
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