六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ちょっと気になるが、まっ良いか。啄木に寄せて・・。

2008-06-16 14:44:54 | よしなしごと
 この額は、母が入院している病院のエレベーターホールに掲げられた幅3~4メートルはあろうかという大きな書です。ですから、エレベーターの乗り降りの際、否応なく目に付きます。
 4年前に母が入院したときもここで、また今回もですから、もう百回ぐらいはお目にかかっているかも知れません。

 
 
 これは石川啄木の短歌で、
   新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど
 というものです。
 もちろん場所柄、病人を激励するための歌です。私もまた、その前半の言葉から、そうであろうと信じていました。

 しかし、後半まで読み進むと、なぜか違和感があります。
 「自分の言葉に嘘はなけれど」の「ど」がくせ者なのです。この「ど」は、「だけど」の「ど」で、強い否定ではないにしても、疑惑を残す「ど」といっていいと思います。

 
 
 私なりに翻訳すると、
 「新しい明日が来るのを信じている私の言葉に嘘はないはずだが、果たしてその明日は・・」
 ということになります。
 要するに、手放しで明日への希望を歌っているわけではなく、どちらかというとそこにどうしようもなく差し挟まれる疑念のようなものが歌の主題であると思われるのです。

 

 類推ばかりしていてはと思い、原典に当たり、その前後のものと併せて考えれば事態はより明らかになるだろうと、「一握の砂」や「悲しき玩具」、それに「啄木詩集」などを捜してみたのですが、それに該当する歌は見つかりません。
 それもそのはず、この歌は、啄木が亡くなる一週間前に出版社に持ち込んだ文字通り絶筆の歌で、しかも、この前受金を最後の薬代に充てたというのです。

 ですからこの歌は、「希望」のストレートな賛歌などではなく、絶望ではないにしても、希望の揺らぎを歌っていることには間違いないようです。
 しかし、私はそれを病院側にいうつもりはありません
 多くの患者や見舞いの家族たちが、この歌に希望を見いだしているとしたら、啄木の真意やその歌が出来たシチュエーションなどを実証的に明かしたところで何の役にも立たないからです。

 

 ところで、この額が病院にかかっていること、啄木自身が病に冒され、わずか27歳で逝ったことなどから、この「明日」は彼の健康回復への祈りのように見えます(その面もあったでしょう)が、実際には、彼は当時としては強固な社会改革派(どちらかというとアナーキスト系)であり、従って彼の一連の歌が指す「明日」には、働く人々がほんとうに報われる時代の到来としての「明日」への希望が託されていることは間違いありません。

 

 少年の頃、私が詩人というものの発する言葉の力に最初に撃たれたのは、啄木の詩によってでした。

 今日も明日も病院へ行きます。この額を見るでしょう。
 しかし、最後の「ど」の字は読まないようにするつもりです。

写真の花々は、すべての病む人々へのお見舞いと、啄木への献花です。
 



コメント (1)
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