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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

張りぼてはもの憂げであるのか?

2007-10-09 05:08:44 | よしなしごと
 張りぼてというのはどこかいびつで、それが面白く、また、もの憂げだと思う。
 リアルで、精密なそれもあろうが、それらはどこか面白味に欠けるのかも知れない。もちろん、これは私の偏見である。

 「もの憂げ」というのも、もちろん私の偏見で、子どもたちはそれがいびつであろうが精密であろうが、それを喜び、愛でている。

    

 紹介するものは私の町の張りぼて屋さん(こんな呼称で良いのだろうか)で見かけたものである。
 いろいろあらぬことを考えて自転車を漕いでいた私は、最初、これらを見過ごし通り過ぎようとしたのだが、宮本武蔵ばりに「ム!」とただならぬ気配を感じ、斜め後ろ越しに振り返った視線の先が、この張りぼてたちであった。
 
 慌てて自転車をとって返し、カメラに収めた。
 二枚目(私のことではありません)の写真が示唆するように、これは近々行われるこの地区(かつての中山道加納宿)の祭りの子供神輿のためのものであろう。

    

 この辺りは、れっきとした岐阜市の一角なのだが、かつての独立した城下町の面目もあってか、地区の祭りが岐阜祭りとは別に結構盛大に行われる(ただし、春の例祭はずいぶん前に岐阜祭りに統合されてしまった)。

 そういえば、私が子供の頃、古老たちは、岐阜の中心部へ行くのに、「ちょっと岐阜まで行って来る」などといったりしていた。
 これは名古屋の中村区に住んでいる人が「ちょっと名古屋まで」といったり、東京の墨田区の人が「ちょっと東京まで」といったりするようなもので、子供心には違和感があったが、その背景には、加納は別の町という歴史に裏付けられたプライドのようなものがあったのかも知れない。

    

 張りぼてに話を戻そう。
 この祭りに行って写真を撮ってこようと思う。
 まだ未完のものもあったが、祭りまでには出来上がるだろう。
 それを担いでいる子どもたちに出会えたら楽しいだろうな

 冒頭に、張りぼてを「もの憂げ」と表現した。
 子どもたちにとっては夢がいっぱい詰まった憧れであるこれらの物体に対してである。この張りぼてたちは、大人たちが神を崇めて担ぐ神輿と同様、子どもたちには神の代理として崇め担がれるのである。それなのに・・。

    
           FC岐阜、J2昇格間近?

 それは多分、私の小賢しい知恵が先回りをして、張りぼての中味が空無であることを読みとってしまったからではないだろうか。
 だとしたら、「もの憂い」対象は張りぼてではなく、そうした私自身であるのかも知れない。
 張りぼてに狂喜した日もあったはずなのに・・。
コメント
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