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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【嘘が嘘になる構造】

2007-10-25 03:24:52 | 社会評論
 嘘つき大会があった。
 それぞれの出場者が、さもありなんという嘘をつきまくった。
 優勝者は最後に出てきて、たった一言、こう言った人だった。
 「私はこれまで嘘というものをついたことがありません

 

 人は嘘をつく。
 しかし、それが嘘として成立するためには、ある条件が必要なのではあるまいか。
 要するに、それを誰かが嘘だと知ること、あるいは、それと指摘することによって嘘は嘘としてはじめて明らかになるのではないだろうか。

 ということは、私が意識的についた嘘でも、それを皆が信じるならば、それは嘘ではないということである。裸の王様は、少年が裸であると指摘するまでは煌びやかな衣装をまとっていたのだ。
 逆に、極めて真面目に真実を語ったつもりが、その観察や結論への過程に誤りが見いだされ、嘘として告発されることもあるだろう。例えば、私の言説がそれであるように。

 

 要するに嘘は、嘘をつく私の側で嘘となるのではなく、それを嘘として指摘する誰かに依存しているということである。そうした誰かがいなければ、私は嘘をつくことすら出来ないし、嘘が嘘として明らかになることもない。

 「赤福」は30年以上前から嘘をつき続けてきたといわれているが、誰もそれを嘘だと指摘しなかったので、それが嘘だと指摘されたほんの何週間前までは、「当日作ったものしか売らない」というそのうたい文句は「本当」だったのだ。
 同様に、相継ぐ各種の偽装はすべて、誰かがそれを嘘だと指摘するまでは嘘ではなかった。
 「宮崎地鶏」は、東国原知事が飛び回ってPRを続けたおかげで、ピッカピカの「本当」であった。それが嘘だと伝えられた昨日(10月24日)までではあるが。

 

 こうして偽装や嘘が驚くほど続出すると言うことは、内部告発であれ何であれ、それを嘘だと指摘する力があったればこそなのであろう。
 だとするならば、嘘が続出することを嘆くより、嘘を嘘として告発する力が強まったことをこそ評価すべきではないだろうか
 
 だいたい、世の中が本当のことで出来ているとか、そうあるべきだというのはナイーヴ過ぎる。世の中は嘘に満ちているし、それを告発することによって、さらに巧妙な嘘が生み出されると考えて間違いないのだ。
 私たちは、まさにそのいたちごっこを生きているのだ。
 
 いわゆる広告宣伝は、いかに巧みに嘘をつくかということのオンパレードである。音響、色彩、ある種の心理学まで動員して、本当らしさを演出している。
 だから賢い消費者はそれを鵜呑みにすることなく、自分の検索能力を駆使し、そのフィルターを通じて改めて判断する。

 
       ごみ箱をなくしたらテロがなくなる?

 政治の世界には、未だ嘘として指摘されていない怪しい事柄が腐るほど堆積していると考えて間違いない。
 彼らは権力を行使して、それを嘘として告発する者をねじ伏せ、もって虚構の館に「本当」の看板を掲げ続ける。

 冒頭の嘘つき大会の結果のように、本当の嘘つきは、「私は嘘はつきません」という者たちであることは間違いないのだ。

コメント (2)
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