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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

昆虫・木瘤・そしてサルトル

2007-10-12 05:29:40 | よしなしごと
 この公園は、道路が不規則に交差した結果出来た、三角のゾーンにある本当に小さい公園です。それでも子どもたちが遊ぶのでしょう。遊具などがあります。

 故あって、二ヶ月に一度ぐらいこの公園に面した道を通ります。
 惚れた女性のもとに通うわけではありません。それなら、二ヶ月に一回なんてことはありません。情熱的な私は、毎日通います。

 

 今月もここを通りかかりました。
 ひとりのおじさんが、すでに始まった落葉などを丹念に掃除しています。服装などからして市の清掃員ではないようです。どう見ても近所のおじさんです。

 ボランティアでしょうか、それともやはり市に依託か何かされているのでしょうか。いずれにしてもご苦労様です。
 ですから、傍らを通り過ぎるとき、「ご苦労様です」と挨拶をしました。そしたら、いいえどういたしましてと、私より深々と頭を下げられてしまいました。私の負けです

 

 写真の昆虫たちは、その公園の車止めなどに描かれているものです。

 それから、一見不気味な木瘤(最後の二枚の写真)は、青桐のそれですが、この木、交通の妨げになるとかの理由で低いところの枝が払われると、それにすねるかのようにその箇所に瘤を作るのです。この裸の生命力は私に不気味なものを感じさせます。

 

 ここまで書いてきて、突然思い出したことがあります。
 サルトルに、その名を一挙に響かせることとなった『嘔吐』という小説があります。
 主人公ロカンタンは様々なものに反応して嘔吐を催すのですが、とりわけ有名なシーンは、マロニエの根っこに対して嘔吐を覚えるものです。

 サルトルはこれを、裸形の存在、本質から解き放たれた実存そのものへの不気味さとして提示しています。
 でも、果たしてそうでしょうか?
 私たちが裸形の存在に直接お目にかかることなど出来るのでしょうか。

    

 果たせるかな、その後を襲ったいわゆる「構造主義」は、私たちの認識はすでに常に構造化されていて、裸形の存在や、裸形の自由などはあり得ないことを明かしました。
 その構造主義自体が、スタティック(静態的)であるとして批判されるのですが、まあ、これ以上述べますまい(私の能力を超えそうだから・・笑)。

 何を言いたかったかというと、サルトルが見て嘔吐を覚えたというマロニエの根っこは、彼のいうような「裸形の存在」ではなくて、樹木の生命力が、私たちの存在いかんに関わらず厳然として存在しているというその、まさに「具体的な事実」、現象、現れに立ち会っている自己に気付いたからではないでしょうか。

    

 フロイトが不気味なものから「死への欲動」を導き、ハイデガーが同様に不気味なものへの不安から「存在の開示」へと至る過程を、サルトルは存在そのものとの出会いと考えることによってその後に続くべき出口を自ら閉ざしてしまったのではないでしょうか。

 晩年のサルトルは、「自由への恐怖」を充たすためにマルクス主義(しかもあまり洗練されていないもの=スターリニズム的なもの)を導入したりして、悪戦苦闘したように思います。
 それあってか、あれほどの影響力を持ち、風俗にまでなった実存主義が、急速にその影響力を失うのを見ることは悲惨ですらありました。

 確かに、今となっては彼の限界をあげつらうことは簡単かも知れません。
 しかし、思想というものは現実から紡ぎ出されたものでなければならない(被投)、そしてまた、現実にフィードバックされねばならない(企投)という彼の声は、私の中では今もなおこだまし続けているのです。

 
コメント (2)
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