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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

『いのちの食べかた』の私の観方

2007-10-22 14:16:19 | 映画評論
       

   『いのちの食べかた』 
   <あまりネタバレはないと思う>  

   原題 OUR DAILY BREAD (日々の糧)
   監督・撮影  ニコラウス・ゲイハルター

 試写を観た。
 私たちが日常口にする食料の食材段階での生産のありようを描いている記録映画である。対象は、肉類、魚類、野菜、穀物、果物、調味料と多岐にわたる。

 結構衝撃的な場面もあるが、映画は淡々とそれらを映し続ける。
 ある意味では、実に寡黙な映画である。ナレーションも科白も、音楽もない。すべての音がその場面での現実音に限られる。いわゆる説明のようなものもなく、ただ映像が与えられるに過ぎない。もちろん、結論やアジテーションもない。
 その意味では、マイケル・ムーア監督の手法とは全く対極的である。

 しかし、その映像は圧倒的な迫力で私たちに様々なインパクトを与える。
 しかも、それらの映像が実に美しいのである。幾分残虐ともいえる場面も登場するのだが、その場面でも映像は美しさを失わない。
 食材が単なるオブジェとして扱われているのが映画の注視点であるとしたら、映像もまた、オブジェとしてその美を表現している。

 かくして、食材をめぐる様々なありようが、映像の連続として私たちにダイレクトに手渡される。これを編集し、何であるかを明らかにするのは、観客であるあなたの責任だといわんばかりにである。

 しかしもちろん、人為的な編集がないわけではない。
 食材生産の実状の映像に、まるで箸休めのように挿入される、それら食材生産に従事する人たちの食事風景は印象的である。
 彼や彼女たちの食事は、パンやサンドイッチようなものと多少の飲料物、あるいは調味料といった至って質素なものなのだが、その食事風景がかなり丹念に撮られている
 
 それは、アキ・カウリスマキ監督の映画に於いて、しばしば登場人物が食事をしたり煙草を吸ったりするシーンに似ている。要するに、単に空腹を充たすためのものというより、食べることそのものに於いて彼や彼女がそこにいるといった描き方なのだ。
 もちろん、同時にそれが、彼や彼女がなしている作業との関連や対比を示していることはいうまでもない。

 要するに全体としては、今日私たちがそれを前提としている現実を端的に描いているにすぎないのだが、それが美しい。それは、この内容がかくも美しく描かれて良いのかというほどなのである。
 結論は私たちに委ねられているとはいえ、これを見た途端に、「スロー」だとか「ロハス」だとかいう言葉が、なんだか戯れ言のように空々しく思えてしまったことを告白しておこう。

 最初に、ある意味で寡黙な映画だといったが、実際には必ずしもそうではない。実に多くのことが提示されていて、私たちがそれについて考えることを促すのだ。逆に、一見寡黙であるがゆえに、私たちをある限定された結論へと誘導するのではなく、多様な印象と思考への誘導を残すのだ。

 見終わった折り、「ん、もう終わりか。もう少し見せて欲しい」と感じるのは、この種の映画としては珍しいのではなかろうか。

 名古屋地区では「名古屋シネマテーク」にて、12月1日(土)より上映。

 
 
コメント
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