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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「投げろっ!」 手榴弾と重火器の戦

2006-08-07 15:54:31 | よしなしごと
 

 

 夏のピークを示す歳時記、甲子園大会が始まりました。
 前の日記で書きましたように、今年は、わが母校、県立岐阜商業も出場しています。

 この時期、球音を聞きながら、どうしても思い出してしまうエレジーがあるのです。

 母校の話に戻りますが、敗戦前の数年間、野球部は実に強かったのです。
 夏の大会では1936年(昭11)に全国制覇、38年(昭13)には準優勝。
 選抜に至っては、1933、35、40(昭8、10、15)年に優勝し、その間、39(昭14)年には準優勝をはたしています。

 母校の自慢がしたいわけではありません。問題はその折りの選手たちのその後です。
 結論を言いましょう。昭和10年代に活躍したこれら球児の内、実に5人のレギュラーが戦死しています。
 多くの若者たちが戦場に散った時代ですが、それにしても、この数字が示す率は高いものがあります。

 一説に依れば、「お前らは、野球をやっていたのだから肩がいいはずだ」というので、最前線で手榴弾を投げる役を命じられたというのです。無謀な戦で、武器弾薬の供給もない中、アメリカ軍の重火器に、肩の筋肉のみで立ち向かえと命じたのです。

 慶応へ進んだ松井という大エースがいました。彼も戦場に散ったのですが、国元へ出したほとんど最後の手紙を見たことがあります。文武両道というのでしょうか、落ち着いた調子の文章が、墨跡も鮮やかに記されていました。死への予感を濃厚に滲ませながらです。自分の周辺の人達への丁重なお礼の言葉が印象的でした。「○○とてもおいしゅうございました」という言葉とともに。

 原爆忌、甲子園、終戦記念日は、私の中では一連の歴史的モニュメントのように思われるのです。

 ただし、「英霊」であるとかいった美化には賛同し得ません。彼らは「犬死」させられたのです。彼らを「犬死」させたもの達への憎悪を完遂しきるとき、彼らの「犬死」は、私たちの「尊い礎」として回収されるでしょう。

 そうした私の願いとはうらはらに、事態が逆行し始めたのではと懸念いたします。
コメント (1)
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