六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

アラ、エッサッサ~  でもみんな腰がひけている。

2011-09-09 01:52:30 | アート
        
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ダンゴムシは午前1時30分にすすり泣くのだろうか?

2011-09-07 01:27:04 | アート
        
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ダクストランティアの懺悔

2011-09-06 03:40:49 | アート
        
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棟方志功展 付・田んぼの見回り

2011-07-30 16:58:47 | アート
 過日、疎開先の大垣の小学校の同級生だった懐かしい友人(女性)から、折から名古屋で開かれている「棟方志功 祈りと旅」展のチケットをいただきました。
 余談ですが、最近女性の方から、こうした粋なプレゼントを頂く機会が多いのです。うれしい限りです。

               

 で、早速、混雑するであろう週末を避けて金曜日にいってきました。
 実は棟方志功展、以前にももう少し小さい会場で観たことがあるのですが、今回のものはその出品点数や作品の多彩さでそれをはるかに凌駕するものでした。
 とりわけ、その作品には何十メートルに及ぶ壁画などの大作があるのですが、それらは距離を置いて観ることができるロケーションが要求されます。
 それらを愛知県美術館はほぼ満たしていたと思います。
 もちろん、壁画などは本来これらが置かれている場所とは違ってそのアウラが失われているといえばそれまでですが、まあ、それはないものねだりで、その場へ行く機会も体力もない身には、それらが一堂で観ることができるというのはとても有難いことです。

 そうした大作の荘厳ともいえるものがあるかと思うと、一方、ほっとさせるようにまろやかで優しい女人像があったり、岡本かの子や草野心平の詩集につけたモダニズムと土着が融合したような作品があったり、あるいは故郷青森の「ねぶた運行絵巻」のように、名誉市民になった自分自身もそこに描かれているユーモラスな人間鳥獣戯画風(ただし、こちらは極彩色)の長~い絵巻物があったり、その芸業(彼自身の言葉です。芸術とは称さなかったようです)の多彩さにはただただ驚嘆するばかりです。

            

 とくにその彩色ものの色彩は、後半に進むにつれ、郷土青森のねぶたや凧絵の感覚に深く根ざしていることがよくわかります。ゴッホに触発され「わだばゴッホになる!」と郷里を飛び出した彼ですが、その後の柳宗悦や河井寛次郎などの民芸運動との出会いによるものでしょうか、どこかで郷土色を独特にアレンジしながらその芸業に活かしていったようです。

 正直にいいますと、これまで私は棟方作品のひとつひとつの個別の作品にはどこかいまひとつ馴染めないものを感じていました。しかし、これだけの芸業の集積には完全に圧倒されました。そしてそれらの作品の海の中から、「ああ、これはいいなぁ」という何点かの作品を見出すことができました。
 その意味で私の棟方観を塗り替えるきっかけとなったかもしれません。
 ようするに、彼の作品を素直に見ることができるようになったということです。

              

 この歳になった私に、なおかつ新しい出会いや視点変換の機会を与えてくれた小学校の同級生、Sさんに感謝することしきりです。
 
この美術展から帰ってTVを見たら、新潟や福島での豪雨災害を報じていました。
 早々と梅雨明け宣言をしておいてぐずついた天候が続くと「戻り梅雨」などと名付ける人間の身勝手さはともかく、その災害のひどさには身震いします。
 こうした際、いつも、田んぼを見回りに行った老人が行方不明になったり水死したりするケースがあります。今回もそうです。
 なにもそんな日に田んぼなど見にゆかなくともと、都会の人たちは思うかもしれません。しかし少年の日々を田園地帯で過ごした私には、そうした「米作る民」の思いがわかるだけにとても切ないのです。
 まだカッパなどという洒落たものがなかった頃、田舎の祖父が雨風の激しい中、蓑笠をつけて田んぼの見回りに出かけた記憶がよみがえるのです。

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『泰山木の木の下で』と女優・山田 昌さん

2011-05-13 23:23:49 | アート
 体調がほぼ戻ったと勝手に解釈し、久々に名古屋に出かけました。ほぼ一ヶ月ぶりです。

 演劇と映画を見ました。
 映画を2本とか、時として3本という経験はありますが、演劇と映画という取り合わせははじめてです。
 昼食を昔の仲間達ととったあとの観劇でした。

     
          泰山木の花 一昨年、養老公園にて撮す

 『泰山木の木の下で』が演目で、名古屋を代表する演劇集団「劇座」の公演です。一説によると、主演の山田昌さんはこれをもって最後の主演作品にしたいとのことですが、演技を見た限りではまだまだお元気、今後も期待したいものです。

 脚本(1962年)は、数々の問題作をものにしてきた小山祐士によるもので、彼自身の故郷である広島の瀬戸内に繰り広げられる人間模様が展開されるのですが、その背後には、いずれも原爆の後遺があらわに、あるいは密やかにこびりついていて、それがなお、現在進行形の問題として描かれています。

 もはや喉元を過ぎたように日本人が忘れ去ってきた情景がそこにはあるのですが、一方、現実にはフクシマがなおも恐怖をまき散らしていて私たちに今一度原子力というものの脅威を突きつけている中、このお芝居はとてもタイムリーでした。しかしこれはこの現状に合わせて企画されたものでは全くなく、この稽古中に3・11を迎えたのだそうです。
 作品の選択は山田昌さんによるものだとのことです。

            
 
 芝居はことさら主題を声高に言い立てることを避け、ただ現実に起きてしまったこと、そして今なお進行し続けていることを提示してゆきます。原爆は外からもたらされたものというより、すでにして人々が抱え込んでしまったものとして描かれます。

 それは、人が恣意的に払いのけたり、逃亡したり出来ないものとして登場人物の中に刻み込まれてしまっていて、彼らはそれを生き続けるほかはないのです。ですからそこでは表層の糾弾が叫ばれることはありません。ただ起こってしまったことが突き付けられるのみです。

 ではどうしたらいいのでしょう?
 それは私たち一人ひとりに突き付けられた宿題ともいえます。
 そしてその応用問題がいま、フクシマという形で問われています。

 愛知県芸術劇場小ホールにて上演中。5月14日(土) 15日(日)14:00開演
 次回はその後見た映画のと関連し、音楽家の話を書きたいと思います。

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写真掲載とコンサートの話

2011-03-21 16:24:04 | アート
 時節柄、写真の掲載をしてきませんでしたが、少しずつ再開いたします。
 「琵琶湖落日」の写真です。

          
              陽が山の端に近づいて・・・

 また先般、前々からチケットを購入してあった大阪フィルの第三十四回岐阜定期公演へいった来ました。
 演奏の全プログラムに先立ち、「G線上のアリア」が粛々と演奏されました。

       
              落日寸前と釣りをする人

  演奏が終わっても、拍手をしていいものがどうかみんなが迷いました。
 最初はパラパラと、やがて一斉に盛大な拍手が沸き起こりました。
 それは演奏者を称えるというより、被災地への激励の拍手でした。

       
                 落日直後

 プログラムの中に、ベートーヴェンんの「第六」があったのですが、嵐の場面でつい東北の状況を想起してしまいました。

 指揮は延原武春氏。
 

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ゆとりのない男のユトリロ見物 by 路面電車 @豊橋

2010-11-03 23:58:00 | アート
     

 金も時間も、そして何よりも残された寿命にゆとりがない男がユトリロを観に行きました。
 先月末から、豊橋美術館で始まった「ユトリロ展」です。
 リスクを負った仕事を月末に終えたので、余勢を駆って思い切って出かけました。

     
               豊橋美術博物館正面

 岐阜からJRの快速で約一時間半の旅、在来線の遠出は久しぶりです。金山以東にはほんとうに久しぶりなんです。なるほど、尾張や三河の町々はこの様に変貌したのかと感心しているうち豊橋着です。

     
                  美術館中庭
             

 ここに降りたつのもも久しぶりです。最初にきた頃は「丸物」という百貨店がありました。それはその後、「西武」に変わったというのですが、もはやその姿も見えません。

     
           これは展示作品ではなく売店のものです

 「ユル鉄」ちゃんの私の豊橋訪問の目的の一つは、路面電車にに乗ることです。
 駅前から乗り込みました、こうした地方都市の路面電車の楽しさは、いろいろなタイプの電車が走っていることです。色彩も形式も違います。花電車風のものも走っていました。
 料金は一律の150円(子供80円)。かつてと違いワンマンカーですが、運転手の息吹くが聞こえるような電車です。

     
      待望の路面電車ですが夕方から撮ったのでうまく撮れませんでした

 かつて、運転手さんと車掌さんのコミュニケーションの手段であった「チンチン」という音は今でもします。もう必要はないのかも知れませんがこの音がないとチンチン電車の風情がありません。

     
             公園の樹木は古くこんなに根が張っています

 それと忘れてはならないのが足下から伝わる路面電車独特の感触です。それは同じ電車でも、もちろん新幹線や在来線とも違うものです。ゴトンゴトンと足下に直接響く感触はまさに路面を走る感じがするのです。路面電車とは言い得て妙だとすら思います。

 豊橋公園前で降りました、
 ここはほぼ、かつての吉田城の城内です。私が目指したユトリロ展はこの中の豊橋美術博物館で行われているのです。

     
            なんとか公園祭りの際の日時計だそうです
 

 近頃はやりの、建物自体が自己主張をするような美術館と違って落ち着いたたずまいのうちにありました。

 今回の出品はすべて個人コレクター所蔵のもので、出品された92点のすべてが本邦初公開だとのことです。しかしながら、ユトリロはユトリロで、私のような専門家ではないものには、どれもどこかで見たような既視感があります。

 しかし、反面、そのどれもが彼の置かれた状況下での葛藤のたまものであることは知っていました。
 それにしても会場にはそれらがくどいほど説明されています。しかも何度も重複してです。あまりくどく説明されると、彼の作品がそのための挿絵のように思われてしまいます。

     

 絵画の(言語による)説明とか、その作家の経歴と作品との関連などは一筋縄では行かないものなのだと思います。
 現にユトリロは重度のアルコール依存症であり、監禁されながら筆を執ったと説明されていますが、だとするならば、私にもそこそこの絵が描けるはずです。
 え?お前はもう手が震えているから筆を持つのは無理だろうだって? まだ、震えてませんっ!!

     
    公園を借景としたヴィデオ室 ナレーターが下手だったがこの館のせいではない

 ひとは、自己制御が効かないと思われる人の芸術作品などを異常に評価します。身体障害や精神障害などをもったひとたちの作品についてです。
 確かに彼や彼女は、それなりのハンディがあって大変なのでしょうが、それを見聞きする私たちは、自分がまったき自己制御のうちにあって、揺るがぬ主体であるという幻想のうちに身を置いているようです。
 小理屈はともかく、今回来なかったといわれるユトリロの最盛期、「白の時代」の代表作も見たくなりました。
 以下がその主要作品だそうです。
 
?コタンの袋小路(1911年)(パリ、ポンピドゥー・センター)
?パリのサント=マルグリート教会(1911年)(ドイツ、マンハイム市立美術館)
?ラヴィニャン街の眺め(1911-15年)(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
?サン=セヴランの聖堂(1912年)(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)
?パリ郊外(1910年) (倉敷、大原美術館)
?ノルヴァン通(1910年) (名古屋、名古屋市美術館)
?ラパン・アジル(1910年)(パリ、ポンピドゥー・センター)


 このうち、名古屋市美術館のものは見ているはずなんだけど、もう一度いってみようかな。

     
           夕映えの市役所 岐阜よりも立派じゃん

 批判的なことも書きましたが、なかなかまとまったいい企画でしたよ。
 パリの町、とりわけモンマルトルの詩情あふれるたたずまいがユトリロならではの筆で表現されています。
 私は、これまでもこれからもパリには行けないでしょうが、このユトリロや佐伯祐三、荻須高徳などの絵画が私のパリです。

        
       この公園がかつて陸軍第18連隊跡であることを示す歩哨の詰め所

 美術館を出ると、晩秋の陽はもう随分傾いていました。折からの曇天もあって光量も多くありません。しまった、路面電車などをもっと明るいうちに撮っておくんだったと思ったのですが後の祭りでした。

 でも路面電車に乗って好きな絵画をノンビリ観ることが出来るなんて、至福の一日といわねばなりませんね。
 11月は公私ともに多忙になりそうです。
 これを起点にエンジンをかけ直さなくっちゃ。

        
               帰りはこんな花電車に乗った

駅前の飲食店で冷たいお酒を頼んだところ、「八海山」や「銀嶺立山」の下に、申し訳のように「三河手筒」というお酒があるのです。名だたる酒に比べて単価も安いのです。どうしようかと思いましたが、郷にいれば郷に従えだと思い切って注文しました。
 それが大当たりでした。さらっとして随分口当たりがいいのです。
 まだ帰路があるので控えようとしていたのですが、ついお代わりをしてしまいました。蔵元は地元豊橋の伊勢屋酒造とありました。




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10月に書く9月の長い一日 深津絵里さんなど

2010-10-01 04:16:32 | アート
 月末締め切りのものをやっと送稿しました。
 で、しばらくご無沙汰していた日記もどきを書こうとしたのですが、気がつくともう月が変わっています。この月には私の誕生日があり、それを迎えると、還暦プラス一回りということになります。
 なんということでしょう。あの戦中戦後をくぐり抜けてきた愛らしい少年が、まだ生きていて、なにやらごそごそしているなんて・・・。

     
            トリエンナーレの作品

 それはともかく、日記らしい日記を書きます。
 月末の一日、私にとっては忙しい一日でした。
 まずは午前から昼食をはさんで、同人誌の編集会議です。
 どうも歯切れの悪いものを書いてしまったので、いくぶん臆するところがあるのですが、書いたものは書いたもの、腹をくくって判決を待つまでです。

     
            その続き この中に入れるという

 その後、友人に会い、渡すものを渡したり、ちょっとした情報交換をしたりしました。会ったのがちょうど愛知芸術文化センターでしたので、折からの「あいちトリエンナーレ2010」の無料の箇所をいっしょに観ました。
 料金をけちったわけではありません。
 まだまだ行かなければならないところがあったので、料金を払ってゆっくり観る時間がなかったのです。

        
                これもその続き
  
 続いて行ったのが「109シネマズ名古屋」です。
 もちろん映画を観るためで、お目当ては『悪人』ですが、ミーハーな私の本当の目当てが、第34回モントリオール世界映画祭で最優秀女優賞をとった深津絵里さんであることはいうまでありません。
 
 『フラガール』のダンス教師同様、李相日監督は少しずれてしまったヒロインを描くのがうまいと思いました。そこへ深津絵里さんがすっぽりはまった感じです。
 彼女の演技に関しては、決してオーバーなアクションはないのですが、目線の使い方がうまいと思いました。少しの目の動きで、いろいろなものを語ることが出来るようです。

     
          これも作品 天然痘にかかった車だろうか
 
 しびれたのは、セックスのあとの潤んだような瞳でした。男はセックスのあと、そんな女性の表情を余り観ないのでしょうが、映画でもいいですからあれは一見の価値があります。
 脇の良さも見もので、樹木希林、江本明を主人公として観る視点もあり得るぐらいです。

     
              天然痘の後遺症?

 この深津絵里さん、どこかで観たような気がして仕方がなかったので、帰ってから検索したら、なんと1996年に観て、一般的な評価はともかく、私は面白いと思って高得点を付けた『(ハル)』(森田芳光:監督)のヒロインだったのです。
 あの『(ハル)』では当時のパソコン通信の当事者でしたが、今度は出会い系の女性として登場するのも偶然とはいえ面白いと思いました。

 この日の私のスケジュールはこれで終わりません。
 松坂屋の名駅店が既に閉店したことはご承知の通りですが、実はその七階の飲食街のみ、九月末まで営業していたのです。
 そのうちの一軒に私のなじみの店がありました。私の好きな冷酒が複数あり、料理もうまくてリーゾナブルな価格で、いつの間にか店長(板長)やママとも親しくなり、名古屋での会合の帰りなどちょくちょく寄っていた店でした。

     
         映画を観たところから名古屋駅方面を臨む

 その店の最後です。
 どこか名駅近くで移転営業をしたらと思ったのですが、それはしないようです。
 明るくて闊達なママは、引退をして子供を産みたいといっています。
 「なんなら手伝おうか」という私に、もっといいDNAを持った連れ合いがいるといいます。DNAには自信のない私はここで引っ込まざるを得ません。

 レジで勘定を払いました。彼女は私の手を握ってなかなか離しませんでした。女性とこんなに長く握手をしたことはありません。
 「私の子ではなくてもいいから、とにかくいい子を産め」と憎まれ口をいって別れました。

        
            名駅ツインタワーズの夜景

 私も30年近くやっていた店をたたんだ経験があります。その頃のことがいろいろとよみがえりました。
 岐阜駅から自転車を転がし、私の家の近くの郊外にさしかかるにつれ、虫の音が大きくなり、改めて秋を感じるのでした。
 長い一日でした。
 

 
 

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雨の日のオッサン@図書館  幻想的な展示を観た!

2010-07-30 18:07:14 | アート
 雨が降るなか県立図書館へ行った。今日は車だ。
 雨降りだから地下の駐車場もすいているだろうという判断が間違っていた。

 考えて見ればもう夏休み、好天ならプールなどのアウト・ドアに向かう親子などがどっと図書館へなだれ込んだのだろう、駐車場の入り口には「ただいま満車」とあり、その前に数台が待機していた。
 気の短い私は、とって返そうかと思ったが、今日が返却日のものが二冊ほどあることを思いだし、その最後尾に付けた。
 幸い、気の短い私を待たせる限度ギリギリの一五分ほどで駐車場内に入ることが出来た。

       

 館内へ行く。今日の返却は前に述べたように二冊だったが、そのほかに数冊を返却カウンターに置いた。
 なぜ、そんなことをしたかというと、この数冊、「あ、これが必要だ」、「そう、これも必要だ」と何回にも分けてだらだらと借りて来たので、どれがいつの返却日か自分で管理するが困難になってきたからだ。
 それに、その都度返却も面倒だ。

 私はいった。
 「これらを全部返却します。ただし、こちらの数冊についてはもし予約がなければ継続してお借りしたいのですが・・・」
 これはある種の賭である。もし予約が入っていたら私が読みかけたものが取り上げられてしまうからだ。

 幸いにもどれも予約がなく、数冊はすべて私の手に戻った。
 しかも返却期限が同一日に揃ってだ。
 なんと賢いやり方であるか・・・と、自分を誉めてやった。
 そのほかにも雑誌を一冊借りた。

  

 で、帰ろうとしたら、館内の一角のあまり大きくない展示室になにやら面白そうなものが飾ってある。
 近寄ってみると、「絵本のなかの住人たち」展と題されたそれは、岐阜市出身の画家・高橋ユタカが、岐阜県図書館が所蔵する絵本の中からいくつかのおはなしを取りあげ制作したアクリル画・切り絵・ペーパークラフト(モビール等)のさまざまな手法を用い描き出した作品の展示で、幻想的でけっこう雰囲気のいい空間を作り出していた。

 大人の私が観ても面白そうなのに、図書室には子連れがあふれていた割に、ここには私の他の観客はいない。
 ひととおり観たあと、写真に撮りたいなと思ったが、たいていこうした催しは撮影禁止と相場が決まっている。
 念のため、入り口へ戻ったり場内を確かめたりしたが、撮影禁止とはどこにも表示されていない(「作品に手を触れないで」というのはあった)。

       

 これ幸いと、人気配のないのを確かめて携帯で撮ったのがこれらの写真である。
 数枚撮ったのだが、やはり遠慮がちに撮ったせいかうまく撮れていたのは少なかった。それに作品がガラス越しなので、フラッシュが反射したりして難しかったこともあった。

 写真を撮りおわった頃、やはり私と同じような年頃の男性が入ってきたが、私は何食わぬ顔でそこを離れた。
 中途半端な雨がだらだら降り続けるなか、家路についた。
 ワイパーがフロントグラスをスウィープすると、そのすぐ前を濡れ燕が一羽、スイッと横切っていった。

 

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軽やかなカオスの舞いを見た!

2010-06-13 00:53:30 | アート
 畏友、佐治墨拙さんの個展に行ってきた。
 題して 墨拙「&Chaos」展。
 カオス、つまりコスモス(秩序)の反対、ふつうは混沌といわれたりする。

 墨拙さんを紹介するにあたって、昨年までだったらさしずめ書道家といったであろう。
 しかし、写真で見るように、今年の墨拙さんの作品は書というより造形といった方がいい。
 かといって書という表現と手を切ったわけではない。
 もともと書を「字を書くこと」に限定してこなかった墨拙さんの中では、紙に墨で書かれる作品と、こうした造形作品との間に断絶はない。

    

 ただし、書道家としての根っこの様なものは確実に残してはいる。
 まずは紙へのこだわりである。
 この一見、絵画や造形に見えるものたちの正体はすべて紙なのである。
 それは出来上がった紙であったり、半製品の紙をかたどったものだったりするが、紙以外のものでは決してない。
 
 続いてその彩色である。
 一見、絵の具を用いたかのようだが、実はこれらの色彩、すべてその色をした墨を摺って描かれている。

    

 さらには、それぞれの作品にやはり文字がある。
 Chaosという文字が筆で書かれたり、あるいは染色技術の応用で染められている。
 そして、昨年の個展のテーマであった「ふ」の字が、いたずら描きのように隠されていたりする。

 注目すべきはこれらの重量である。
 みんな軽いのだ。
 風が吹けば四散するくらい軽いのだ。

    

 ところでどこがカオスかというと、そこに墨拙さん独自の解釈がある。
 ビッグバーンの原初以来、カオスはコスモスの裏面に張り付きながら存在し続けたし、むしろそれこそが支配原理かも知れないというのだ。
 カオスといってもぐちゃぐちゃな恐ろしげなものではない。
 カオスは何ものかとして規定されていない自由な存在だから、重量にも支配されず軽いのだ。

 かくして、軽やかで楽しげな可愛いカオスが並ぶこととなる。
 暗いルサンチマンや、秩序との対概念ですらもない、それ自身自由なカオスである。
 そしてそれは、墨拙さんが現にそこに住まい、そうあり続けたいというカオスなのである。

       

 私が訪れたとき、BGMはボサノバであった。
 カオスが軽やかに舞っていた。
 
墨拙「&Chaos」展
  *6月17日(木)まで
     11:00~18:00(ただし最終日は17:00まで)
  *ギャラリー安里 TEL 052 (762) 5800
    名古屋市千種区末盛通1-18 覚王ハイツ1F
    地下鉄東山線 覚王山下車 2番出口を左へすぐ

  本人は常時会場に詰めている模様。
  話しかけてやると喜ぶと思います。
   





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