六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

美術館でのパフォーマンスとFC岐阜

2009-11-16 11:50:20 | アート
 県立図書館へ行きました。土曜日のことです。
 隣の県美術館の庭園でなにやらパフォーマンスが行われているようです。
 これを見逃したら「野次馬・六」の名が廃ります。

 もうすでにかなり進行していて途中からになりましたが行きました。
 もらったチラシによると、「MNSEUMUSIC 美術館の音楽」という催しで、音楽と美術、それに各種のパフォーマンスをコラボレイトしたもののようです。

 
 
 最初に目にしたのは、紅葉した南京ハゼの樹のもとで行われている弦楽五重奏の演奏でした。もう終わり頃で、私の聴いたのはコントラバスが地鳴りのように唸るやや前衛的な作風のものでした。

 

          
                お手本のスーラの絵

 それらの演奏と並行して、日本でいうなら鹿鳴館時代のような服装の人たちが芝生の庭園を行ったり来たり、あるいは、その場に座しています。
 はじめはなんだろうなと思いましたが、はたと思い当たりました。これは、新印象派の画家、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を模したパフォーマンスなのでした。トンチンカンな私が思い当たるくらいですから、場所柄からいっても面白いパフォーマンスでした。写真はその一部ですが、会場内をそうした服装の紳士、淑女がかなりの人数、行ったり来たりしていました。

 

 やがて、芝生の上でのトランペッターが、弦楽クインテットの演奏を引き取るように高らかに演奏をはじめ、そこに大きなパラシュートのような布をもった人たちが現れ、スーラの絵よろしく芝生に憩うていたひとを覆い尽くしたりしました。
 
 

 同時に、庭園内の人工的な小川に色とりどりの無数の風船が流されました。
 それが一連のパフォーマンスのクライマックスだったのでしょう。

     
 
 

 後は場所を移して即興的な演奏と、今日のパフォーマンスに参加した個人、団体の紹介がありました。その中に、地元の中学校や高校生の参加があったことは嬉しいことでした。

     
             ちいさな飛び入りのパフォーマー

 それからです、先ほど書いた大きな布で人を覆うというパフォーマンスの折、サッカーの応援風景を連想したのですが、なんとこのパフォーマンスにはJ2で健闘しているFC岐阜のメンバー三人がゲスト出演しているのでした。
 ご存じかも知れませんがこのチームは財政的には破産同様の厳しさのなかで、現在、J2では真ん中ぐらいの地位を確保しています。

 そして、そして、そしてです、わがFC岐阜は、なんとこのパフォーマンスの翌日、天皇杯のトーナメントで、J1のジェフ千葉を喰い、ベストエイトに進出してしまったのです。
 ところがです、次の対戦(12/12)相手はやはり地元の名古屋グランパスなのです。もちろん、トヨタをスポンサーに付けたお金持ちのチームです。監督も選手も選び抜かれたチームです。

 
               FC岐阜の三選手

 私には名古屋に大勢の友人がいます.その中には熱心なグランパスファンもいます。しかしこの際はFC岐阜を応援させていただきます。こうした試合に善戦するかどうかが、チームの存続に係わるからです。

 あ、美術館でのパフォーマンスの話がとんでもなく脱線しましたね。でもいいのです。脱線にこそパフォーマンスの真髄があり、予めの脚本通りではあまり面白くはないのですから(といって自分のチャランポランを合理化する)。

 
                フィナーレ

 しかし、こうした野外パフォーマンスも楽しいですね。
 ちょっと悩んでいたこともあったのですが、それも吹っ飛び、なんかすっかり得をした気分になりました。
 次は伝統的な芋煮会を紹介する予定。




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パタゴニア・ピューマ・そしてトランスナショナル

2008-09-13 02:55:41 | アート
ここに掲載する写真は、全て写真家野村哲也氏の作品であり、掲載に当たっては彼の了解を得たものです。従いまして、別途転載などはご遠慮下さい。

 珠玉の写真には珠玉の文章こそふさわしと思うのですが、そんなものが書けるはずがありません。

 ここに紹介する写真家の野村哲也氏とはもう10年以上前の付き合いなのですが、最初会ったとき、彼は20代の前半だったのですが、私は既に初老の域に入っていました。
 しかし、彼の中には、外へと広がろうとするエナジーのようなものが沸々と感じられました。

 
  以下の三枚の写真は、彼が現在住んでいるチリの近くにあるオソルノ火山
   どこかで見た感じでしょう。そうです、富士山にそっくりなのです。
   日本人は富士=不二として世界遺産にしたがっていますがこんな山は
   世界にごまんとあり、それらの方が実は清純さが保たれているのです


 あるとき、ついその前になくなった動物写真家の星野道夫氏について彼と会話を交わしたことがあります。
 ベテランである星野氏の不注意を責める言説に対し、お祭り騒ぎのテレビクルーから離れ、翌日のエスコートを成し遂げるため、彼の単独睡眠行為は必要なものであったと哲也氏は涙ながらに抗議していました。
 私は、それに共感しました。

 
          
 彼の処女写真集が出版されました。
 「ペンギンのくれた贈り物」というそれは、彼の写真家としての実力はもちろん、私の知り合いたちの協力によって達成されたものでした(風媒社刊行)。

 この写真集には思い出があります。  
 既に老人性痴呆になっていた私の義母が、これを繰り返し繰り返し観ていたことです。
 彼女はもはや故人ですが、最後にその目に焼き付いたものは哲也氏の写真ではないかと思っています。

 

 そんなこともあって、彼との交流が始まり、通信が送られてくるようになりました。
 写真にキャプションや文を付さねばならない彼にとって、文章は必須でした。
 しかし、最初の頃の彼の文章は、名詞や形容詞、動詞が単独に踊るのみで、私は彼に、「細切れのうどんを食っているようだ」と酷評をしたことがあります。
 要するに、すすーっとすすれないのです。

 
          これと次もパタゴニアの山々
            

 しかし、今は違います。
 その後彼は、写真集「悠久のとき」(中日新聞社)や「たくさんのふしぎ」(福音館書店)を始め、雑誌「岳人」や、航空会社の機内誌のグラビアを飾るなど、文章の面でも長足の進歩を遂げています。
 ほどよいつゆを付けて、ツルツルーッとすすったり、噛みしめたり出来るようになったのです。
 あちこちで講演などをして回ったことも、文章の構成力を養うのに役立ったのかも知れません。

 
   
 最初、彼に会ったとき、外へ広がろうとするエナジーを感じたと書きましたが、それは当たっていたようです。
 彼は世界を股にかけて活躍しています。それらはほとんど、南米、アラスカ、アフリカなど生々しくもダイナミックな自然が残っている場所です。
 写真の守備範囲もどんどん広がっています。動物から、土着の人々、雄大な自然などなどです。

 
             パタゴニアの狐

 彼が世界に分け入り、また世界が彼を受け入れてくれるのは、彼の中の「郷に入れば郷に従う」の精神だと思います。
 偏狭な日本の文化や生活習慣に縛られることなく、その土地のリズムの中にす~っと溶け込む能力があるようなのです。しかもそれは、その土地の状況に自分を合わせるという消極的なものに止まらず、自ら進んでその土地の魅力を見出しそれを十全に楽しんでしまうという羨ましい能力です。

 
    何らかの事情で親とはぐれてしまった野生動物の保護施設での
              ピューマの赤ちゃん

 そんなこともあって、日本が狭すぎるこの男は、いま、愛妻とともにチリはパタゴニア地方のオソルノ火山に近いロッジに住んでいます。もちろんここは彼の終の棲家ではなく、単にベースキャンプに過ぎないようで、ここを起点に常時あちこちと飛び回っています。
 当分ここに落ち着くのかなぁと思っていたのですが、最近の彼の通信によると、次の居住地候補として南アフリカを既にノミネートしているようです。

 最近彼と、こんな話をメールで交わしました。
 「インターナショナル」という言葉は言ってみれば「ナショナル」を背負った者同士がお互いにうまくやって行くといったイメージなのですが、彼の場合には、そうしたナショナルにもこだわらず、いわばトランスナショナルなイメージがあるのです。そんな話の中から、世界に国境というものがあること自体が、実は不思議で不自然な事実だということで意見が一致しました。

 
  猫の仲間には違いないのだが赤ちゃんにして既に野生の悲哀を宿している

 私はあまり、自分の生まれた時期について不満を持ったことはありません。この時期に生きたからこその私であり、いろいろ悔やむことはあっても、それも含めて私を生きてきたと思うからです。
 しかし、彼を知ってしまうと、しばしば、「ああ、もう半世紀後に生まれたかったなぁ」と思ってしまうのです。
 
 写真はそれを撮る者のまなざしです。
 私も写真が好きですが、私のようにまなざしが濁ってしまった者には凡庸な写真しか撮れません。
 しかし、彼の写真は素敵です。
 それはテクニックを越えて、彼のまなざし、彼と世界とが向き合っているありようを現しているからです。

 




 





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梅雨まっただ中の『春の祭典』

2007-07-20 15:54:28 | アート
 「読売日響」というオーケストラがあります。
 年に一度くらい名古屋にやってくるのでしょうか。
 ずいぶん前に一度聴いた記憶があるのですが、指揮者が誰で、どんな演奏品目だったのか記憶にありません。

 昨19日、その「名曲シリーズ名古屋公演」を聴きました。
 結論を言いますと、「読売日響」ってとてもいいオケですね。

     
         ラフマニノフ

 曲目はラフマニノフの『ピアノ協奏曲・第2番』と、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』
 
 ともに、歯切れのいい曲ですが、それを豪快に聴かせてくれました。

      
      パオロ・カリニーニャ
 
 特に、指揮者のパオロ・カリニーニャ、本来、指揮をする筈だったラファエル・フリューベッグ・デ・ブルゴスの体調不良で、急遽のピンチヒッターだったにも関わらず、それを感じさせない堂々とした明快な指揮ぶりで、演奏者たちもさぞかし弾きやすかったのではと思わせるものがありました。
 むろん、私達聴衆にも、その歯切れのよい端正な演奏がよく伝わってきたと思います。

       
         辻井伸行

 ラフマニノフのソリストは、全盲のピアニストとしてドキュメンタリーでも話題になった辻井伸行君。オケがよく鳴る曲なので、それとの格闘のような協奏曲ですが、よく弾ききったと思います。
 ただ、私の席がS席ではなかったせいか、特に第一楽章では、オケとの絡みの部分で、幾分ピアノが聴き取りにくいように思いました。
 しかし、まだ18、9歳という若さ、経験を積むことによりまだまだ伸びる才能だろうと思います。

    
        ストラヴィンスキー

 後半のストラヴィンスキーは、ディスクなどでは何度も聴いているのですが、生の演奏は初めてです。この曲、ビジュアル的にも充分楽しめますね。
 とくに、打楽器と管楽器が大活躍する曲ですから、音の鳴る瞬間の緊張感などが視覚からもリアルに伝わってきます。
 その点では、前の方のS席よりも、私のようなA席の方が、オケの後方が見渡せて楽しめたのではないでしょうか。

    
    『ベルリンフィルと子どもたち』から

 この『春の祭典』、なんでもない市井の子どもたちが踊り、サイモン・ラトル指揮の、ベルリンフィルと協演するというドキュメンタリー映画、『ベルリンフィルと子どもたち』(2004年・日本公開は05年)にも出てくるのですが、あの映画では、クライマックスシーンの協演部分が期待より短く、ちょっと欲求不満が残ったものでした。
 その分を取り返すほど、今回は堪能できました。

 最初の方に書いたのですが、オケを聞きわけるほどのいい耳を持ってはいませんが、この「読売日響」は私の期待値を越えていました。
 今回のプログラムは、どちらかというと歯切れのいい豪快な曲で構成されていましたが、このオケで、一度、叙情的は曲目を聴いてみたいと思いました。

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山下洋輔 meets S・Q

2007-06-18 04:51:08 | アート
 岐阜はサラマンカホールでのコンサートへ行って来た。
 
 前半は山下洋輔とクラシックのバイオリニスト・松原勝也とのデュオ。
 スタンダードナンバー3曲ほどの演奏のあとは、山下自身の作曲になる「ピアノとバイオリンのための<Chasin' the Phase>」。要するにいわゆるバイオリンソナタであり、「Conversation」「Dance」「Song」「Flight」という4楽章からなる曲であった。

     

 最初のスタンダードナンバーで聴いた「テイク・ファイブ」は、ピアノとバイオリンのバトルのような激しさの中に、インプロビゼーションが行き交い、これまで聴いてきた「テイク・ファイブ」とは全く違う曲のようで、驚きと新鮮さを覚えるものだった。

 「ピアノとバイオリンための・・」は、山下が、このバイオリン奏者、松原の委嘱作品として書いたものだけあって、呼吸もぴったり合っていて、充分楽しめた。
 ジャズの持つ個性的な性格からしても、この同じ曲を他の奏者で聴いたら、おそらく、全く違うだろうと思われる。それほどこのデュオにぴったりフィットした曲でありまた演奏であった。
  
     

 後半は、山下洋輔と、前出の松原勝也が率いるストリング・クァルテット(v1松原、v2鈴木理恵子、viola市坪俊彦、cello山本裕ノ介)とのコラボレーションで、クラシックの編成でいえば、ピアノ五重奏ということになる。
 なお、チェロの山本は、今は亡き山本直純の子息とのことで、その面影は確かにあった。

 曲目は、やはり山下の作曲による、「ピアノとストリング・クァルテットのための<Sudden Fiction>」で、13の小品からなる組曲であった。
 内容は、ジャズの始まりとしてのアフリカを振り出しに、アメリカでの開花、日本への上陸などをイメージしたもので、曲ごとに様々な風貌が導入され、それぞれがとても楽しいものであった。

 最初はやや端正すぎるかなと思われた演奏が、次第に広がりを持った豊かなものに展開する様は、曲自体の持つ内容もさることながら、特に、クラシック側の奏者にあった堅さがほぐれ、彼等自身が大いに乗ってきたことにあるようだった。

     


 特に、「ハプニング」と題された第10曲においては、ストリングスの奏者の一人一人が、インプロビゼーションというか、カディンツァを披露し、それぞれに拍手が湧くほど会場も乗ってきた。

 思うにこれは、山下の爆発するような演奏と、彼が発するオーラ
のようなものの効果で、各演奏者の音色が、ひとつの渦巻きのように会場を駆けめぐるという熱気に溢れた様相が実現されたためといえよう。

 いやー、楽しかった。
 久々に命の洗濯が出来た。




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