イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

蚊ですよ、蚊

2007-08-21 17:59:44 | アート・文化

 元祖・カリスマモデルの山口小夜子さん、亡くなりましたね。

 訃報と一緒に出たプロフィールによれば、71年にモデルデビュー、72年にパリコレ進出して、77年にニューズウィーク誌“世界のトップモデル6人”に選ばれています。

 月河が実家母の読む『ミセス』『マダム』『家庭画報』などの雑誌のグラビア・広告ページで見かけ始めたのもちょうどその頃だったと思います。

 いま考えれば信じがたいことですが、70年代初頭の当時は、広告であれ、服やインテリアといった実用情報であれ、ちょっとでも“お洒落”“リッチ”“先進性”の味付けのあるページのモデルさんは白人か、白人系のハーフが当たり前でした。

 特に広告に関しては、化粧品やクルマなどのゼイタク品はもちろん、バス・トイレタリー、家電製品、チョコレートやキャンデーなどのお菓子から、今で言う企業イメージ広告に至るまで、ひたすら白人白人。

 やはり敗戦後20数年ですからねぇ。大げさに言えば、連合国軍の占領政策によるメディア操作が、独立回復後も尾を曳いていたんでしょうね。

 そんな中、プロポーションは模範的八頭身瓜実顔のモデル体型ながら、引き目鉤鼻の平安朝風顔パーツとストレート黒髪の山口小夜子さんは強烈な異彩を放っていました。

 パリコレやオートクチュールには縁のない地方の中学生だった月河としては、やはり、資生堂の雑誌広告、ときどき薬局のカウンターでパラ見するPR誌『花椿』の表紙がいちばん印象的だった。

 「そうか、日本人なんだから、日本風でいいんだな」ということに多くの広告主や代理店も気がついたのか、小夜子さんの台頭以後の70年代後半から、地滑り的に日本人モデル起用の広告が増えたと思います。

 57歳。亡くなる3日前には事務所と電話で仕事の打ち合わせもし、特に持病もなかったそうです。もったいない、惜しいと傍目からは思いますが“美しくあること”“カッコよくファッショナブルであること”そのものが生業だという人生には、57年でも長すぎるくらいの重圧だったかもしれない。

 同じ“存在が生業”組でも、女優や小説家なら、老醜したり家族や異性関係のドロドロで磨り減っていくさまをも商品化し、それによって自浄し延命する道もあったでしょうが、小夜子さんはそう言うタイプのディーバではなかった。

 十二分に生き、完全燃焼された57年だったと思いたい。

 「日本人が日本人らしくあることによって美しくカッコよく世界に見せる」という至難の命題は未解決のまま、平成に時は移りました。

 ご冥福をお祈りします。

 『金色の翼』第37話。

 玻留が隠した迫田ファイルをひそかに奪回すべく島のホテルを再訪した修子の大冒険より何より、今日は石野料理長(田中聡元さん)の槙へのひと言「理生さんを泣かせたら、オレも黙ってないから」が圧巻。

 理生にひそかに好意を寄せているという、極限まで抑制的な描写以外、誰の味方にもならず敵対もせず寡黙な勤勉を貫いてきた石野が、初めて自分の感情をあらわにしたという意味よりも、ドラマ展開上大きいのは“こんな(温和で協力的な立場の)人まで敵に回してしまった”槙の四面楚歌ターボ。

 今日のひと言で槙をガツンと追いつめた料理長、ドラマ的にグッジョブ。観るほうもガッツポーズのシンクロでした。

 すでに槙は、良き上司であり職場仲間であったはずの杉浦支配人夫妻とも、30話以降兄の消息をめぐって微妙な関係になっています。

 何度も繰り返しになりますが“宿命の女”ものにおいては、女(=今作では修子)の正体や真意や過去の謎探りがサスペンスの主軸になる必要はまったくないのです(なっても悪いことはないのですが)。

 主軸はあくまでも“女”の存在や言動によって、善良、廉潔、勤勉だった人間が自分でも気がついていなかった潜在的な欲望に火を点けられ油を注がれ、本来あるべき道を踏み外し、協調すべき人・大切にすべき人を敵に回し、信奉してきた価値観を突き崩されて、失ってはならないものを失い、やってはいけないことに次々手を染めて、自縄自縛で人生が狂って行く過程にこそあるのです。

 槙は修子を陥れる力を持つ迫田ファイルを先んじて手に入れ、戦いのイニシアチヴを取った気でいるようですが、自分で優勢を自覚して得意なときほど、足元の陥穽が深いということに気がついていません。

 しかも今作の“宿命の女”修子は、本気で槙を愛しています。何とか彼を自分から遠ざけ、イノセントな状態に保ち、自滅をまぬがれさせたい。その切なる思いがますます槙を惹きつけ、巻き込んで行く。

 斥けることで惹き込んで行き、敵対することで深入りして行く「あぁダメだよダメだよ…でもくっついて欲しい!」という二律背反な気分で観られれば最高なのですが、理生のキャラがなぁ。

 「言ってることは間違っていないし、世間的な幸せならこっちとくっついたほうが簡単で安泰だけど、でもくっついてほしくない」と視聴者を焦れさせるアクの強さが、『美しい罠』の澪、『危険な関係』の美佐緒辺りに比べて、理生には薄い。薄すぎる。

 “中途半端にかわいそう”“中途半端にズルく生臭い”

 今日の槙の台詞に「人に利用されるより、必要とされて生きるほうが、どんな財産より豊かな気持ちになれる」という言葉が出ました。

 まさに、理生がそういう、無難で堅実に満ち足りた人生を体現する存在であれば、修子と槙の関係の弓を、もっとキリキリ引き絞れたはず。

 槙‐修子の“お似合い感“危ない、ヤバい、滅びの予感がするけどくっついてほしい感”がいまだ切々と迫って来ないのは、この理生という恋敵キャラの造形の甘さによるもののような気がします

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太さは不問か

2007-08-20 21:20:27 | テレビ番組

 20日、〆日なので取引先の信金支店へ。冷房のきいたビルに入ってホッと涼し…と思ったら、何か例月と雰囲気が違う?

 どうも“今月のお客様満足度リサーチ・サンプル店舗”に当たってしまったようなのでした。

 一歩入った途端、いつもはカウンターに居ないような白髪混じり高ポストそうな役職者お三方が一列に並んで「いらっしゃいませ」「お暑い中ありがとうございます」のユニゾン。

 暑いのはわかってるんだから、改めて蒸し返さんでいいですから。

 いつもの入金、いつもの出金をいつも通りにやって帰るだけなのに、「ぜひお客様満足度アンケートにご協力を」ってうるさい。

 チェックボックスはぜんぶ白地のまま、「顧客の要望を知ろうとする努力は買いますが(←上から目線)(恥)、できれば〆日を避けてください。行員さんだけでなく、客も忙しいのです」と書いて投函して来ました。

 高齢家族かかりつけの総合病院でも年に何度かこのテの調査をやっていて、結果も壁新聞やHPで公開していますが、どうも当方が「ひと言モノ申したくてたまらない」ときにはやってなくて、他件で多忙でどっちかっつうと早く用だけ済ませて出たいときに限って揉み手をして「ご意見をぜひ」とすり寄って来る。

 まぁ、そんなタイミングへの不満も含めて、いち利用者の要望ってことで受け止めてください。

 『金色の翼』第36話。ヴァンピーロ修子、再び島へ飛来。

 ラストカットが小型飛行機の乗降口で、「ようこそ」と手を差し伸べながら果し合いみたいにガン見する槙を、1話の島初訪問時と対照的に服も靴もアクセも純白の修子が睨み返す、象徴的な場面でした。

 槙の「このままでは終わらない」の対・理生、対・自分へのダブルミーニング。夜のテラスでひとり波のうねりを見つめて「修子、オマエの過去に何があったか、すべてを清算しない限り、オマエに未来はない」とつぶやくところをみると、何のこっちゃねぇ槙、修子への未練を視聴者には隠そうともしません。

 かりに隠したってバレバレなわけだが。

 “過去を清算させてやる”なんて大上段、強腰に構えたところで、槙の心の奥底には“誰も知らない彼女の弱みを、いち早く自分ひとりが知って、この世で唯一の‘彼女を救える男’になりたい”という願望が眠っている。

 「世間のみんなは彼女をワルと言うけど、本当は淋しい女(ひと)なのさ、オレだけが本当の彼女をわかっているのさ」って状況、修子タイプを前にすると、世の男たちはいつも妄想するね。

 修子の隠れ家に押しかけてきて、自己流推理で揺さぶりかけたあと、勝手に鰻(うなぎ)を所望して割勘きっちり置いて帰る絹子(高嶺ふぶきさん)が軽くカッコよかった。とにかくこのドラマ、“人の持ち物”“人のフトコロ”狙いの人物が多過ぎますからね。

 「この次は泥鰌(どじょう)にしましょう」って、どんだけナガいもの好きだよ絹子先生。

 このドラマ、アクの強めな脇役さんがとりどりに彩る中、高嶺さん扮するこの保科絹子のキャラはいちばん不満です。

 いつも“ひと騒動起きてから”ギャラリーとして登場して、質問を投げたり痛いところを指摘したりして当事者たちの心を波立たせて行くのはいいのですが、誰の敵でもないかわり味方でもなく“何が狙いなのか、どういう魂胆なのかわからない謎の人物”という位置づけが、物語を盛り下げている…とまではいかなくても、盛り上げにあまりに貢献しなさ過ぎる。

 ぶっちゃけ、絹子が画面に入ってくると、謎や心理のアヤのテンションが“一服休憩”してしまうのです。

 “過去や出自が謎か、語っても真偽不明”なキャラは、このお話なら修子ひとりで必要にして十分だと思う。

 かと言って、腹芸駆け引き二枚舌渦巻くストーリーの中での一服の清涼剤・コメディリリーフと言うには、芝居が様子様子して落ち着かない。

 元・宝塚トップスターでもある高嶺さんの演技力をもっと信頼して、地に足のついた、視聴者の「あっソコ、ソコんところをもっと知りたい」「早くこの先を見たい」という“嵌まりのベクトル”をサポートし、ターボかけるようなキャラに造形できなかったものでしょうか。

 いっそのこと“名うてのゴシップライターで、筆に毒が過ぎた上、大物業界人への枕営業拒否して干された”“ベストセラーで一発逆転を狙ってる”等のお笑いな設定にするとかね。この点は返す返すも残念です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番(つがい)

2007-08-19 23:04:50 | テレビ番組

 トマス・ハリス『ハンニバル・ライジング』を読了したら、ここで感想のひとつぐらいは書くつもりだったのですが、一読、あまりにさらっと薄味過ぎて、もう一度読み返してみないとレヴューにするだけのネタが引き出せんぞと思っているうちに一週間過ぎ、一ヵ月過ぎ。

 ひとつ、はっきりわかったのは、自分は“ハンニバル・レクター”という人物単体には、思いのほか関心が無かったということ(倒)。

 人を“殺す”だけではなく“喰う”、それも“美味に喰う”ことに彼がこだわる理由、妹ミーシャへの思いとトラウマに関しても、前作『ハンニバル』であらかた想像はついていたので、改めて文庫上下二巻の長尺(しかもかなり薄めの二巻)で説明してくれなくても。

 こういうのを“蛇足”と言う。

 おまけに、今作、標的となるナチス軍ゲリラ残党たちが、軒並み小者で、鐚一文キャラが立っていない。

 大戦後ハンニバルの養い親になる叔母・紫(むらさき)夫人にしても、作者が道楽で調べた日本文化の香りを無理矢理どこかに活かすべく捏造されたようなキャラで、浅い・薄い・ぬるいの三重苦。

 贔屓目に言っても“映画化を想定した萌えエロ要員”程度。

 やはりハンニバル・レクターは『羊たちの沈黙』で打ち止めにして、トラウマも女としての美点も唯一自分が正確に看破したクラリス・スターリングへの、地上では実ることのない知的・霊的片思いに、未来永劫完結していてほしかった。

 そんなわけで、休日もふと気がつくと『金色の翼』について考えている自分が居るわけです。

 現時点での精神領域占有度合いで比べれば、昨年の同時期同枠で放送されていた『美しい罠』を上回っているかもしれません。

 最終的にはDVD‐BOXを購入するほどのお気に入りとなった『美罠』ですが、実は本放送当時には、類子がこれまでの半生を槐に語る8話で、「これはあり得ない、無理があり過ぎる」と思ってしまい、敬吾銃暴発死の24・25話ぐらいまで、留守録だけは続けていたものの、視聴は完全に脱落していました。

 何があり得ないって、中学生時代に家業の不振と借金苦で一家心中の生き残りとなり、親戚をたらい回しされながら“ひとりで生きて行ける仕事を”と看護師資格を取って、激務に忙殺されながらも心優しい男性患者と恋愛をはぐくみ、2人きりの慎ましい挙式当日に花婿交通事故→町の有力者のために救急治療を後回しにされ死亡、という凄絶な人生を送ってきた女性が「人生は退屈な日常の繰り返しじゃない、毎日が楽しい企みの筈」は無いだろうと。

 天涯孤独で看護師免許ひとつを頼みに、後ろ盾もなく必死に世の中泳いできた女性なら“タイクツ”なんてタームで人生をとらえる暇などあるはずがありません。

 「このドラマおかしいだろ」とここでクシャッと気持ちが引いてしまった。

 しかし、運が良かった。この作品に関しては、月河本当にツキがあったのです。

 24話を偶然リアルタイム視聴、槙の偽電話で「不破帰国」と聞き慌てて山荘に戻る類子の姿に「アレ、類子いつの間にか奥様におさまってる、どうやって?」と再び興味を惹かれ、毎話のリプレイに戻ってからしばらくして、8話での類子のくだんの名台詞「人生は退屈な日常の繰り返しではなくウンヌン」は、想像力でちょっと読み替えればいいんだな、と気がついたのです。

 類子の言う「退屈な日常」とは、“何もすることのない贅沢怠惰な有閑”を指すのではない。“誰からも注目されずリスペクトもされず、名もなく貧しく美しくもなく、食うためにがつがつ働いていっぱいいっぱいで朽ちて行く人生”のことなのだと。

同じく「毎日が楽しい企み」とは、“世間の称揚と羨望を一身に集めて輝き、誰某ここにありと見せつけながら、背筋を伸ばし辺りを睥睨して誇らかに生きる”ことなのだと。

 この読み替えのパラダイムに気がついてからは、類子という女性像にぐんと気持ちが接近し、「わかるわかる、よしよしその調子」と思いながら展開を追うことができました。

 今作『金翼』も同じ脚本家の作品だけに、一見コロコロ言動が変わって本性が掴みにくい修子という人物にも、同様の“読み替え”が必要です。

 彼女が槙にも理生にも主張する「私は誰も愛したことはない、愛で束縛などされない、いつも自由でいたいから」は、“大切な人を愛ゆえに喪うのは嫌”と読んであげるべきでしょう。

 「その人のためになら喜んで死ねるほど愛している」とクチで言い、紙に書くのは簡単だし、そんな場面が小説や映画では腐るほど描かれていますが、実際“自分を愛するゆえに、人が目の前で命を落とした”という体験をした者の身になってみれば、「愛なんて、特に真剣本気の献身的な愛なんて、もう一生御免」な気持ちになって不思議はありません。

 もちろん、その体験を通して「私のために死んでくれた人の愛に報いるため、他の誰かを力いっぱい愛することで恩返しをしよう」という方向に進む人も大勢いるでしょう。そしてそのほうが人として望ましいには違いない。

 しかし、逆境に立たされたとき“心を開いて助けを求められる味方を1人でも多く作ろう”とするタイプと“人はどこまでも頼りにならないから自分が強くなって乗り切らなければ”となるタイプといて、修子は後者だった。そういう人は愛に、どうしてもネガティヴになります。

 彼女の災いの種となり、視聴者の反感を買う材料にもなっている“一日一億円使っても百年”の資産についても同様。

 弟と2人、かつかつのつましい暮らしで満足なら、こんな楽なことはない。彼女にとって“裕福”“財力”とは、“孤立無援の人生を戦ってきた自分の成功”“戦いを優勢に進め、うまく生き切れていることの指標”なのです。

 そんな物質的なことより、もっと精神的で高尚なことに価値や満足感を見出せばいいだろうに愚かな女だ…とこれまたクチで言うのは簡単です。

 しかし平成19年の日本を生きる成人、特に女性にとって“カネが無くても幸福”という概念の、磐石のご大層さご立派さの前に一抹拭いようもなく漂う空々しさは、すでに周知であり親しいもののはずです。

 他方、槙はどうでしょう。理生から「あなたを失うくらいなら自由をあきらめてもいい」とまでの愛を捧げられてはいますが、愛し愛された恋人を殺した兄の事件以来、愛と滅びの相関が、間接的に(?)ながら身にしみているはず。

 彼にとって、二言めには“愛”を持ち出し迫ってくる理生よりも、“カネ目当ての偽りの愛”と割り切って追いかけられる修子のほうが、安心して前がかりになれたのかもしれない。ほどなく偽りから本気に移行するのはわかりきったことでした。

 三角形のもう一つの頂点、理生はいま不思議なことになっています。島から槙とともに脱出する自由を何より熱望していたはずが、「お兄さんの犯した罪の償いのためにも、島に戻るべきよ」と槙に束縛を課している現実。

 自分の求めていた“自由”とは何だったのか。彼女も心揺れているに違いありません。

 34話のアバンタイトルに、意味深い台詞がありました。

 槙が修子に贈った胡錦鳥を見て「1羽で淋しそうだから、オスかメスか、相手を探してこよう」と戯れに提案する玻留に、「よしたほうがいい、初めから番(つがい)で育ったわけではない相手とは、相性が合わず強いほうが弱いほうをつついて殺してしまうこともある」と言う槙の言葉。

 玻留は、姉の愛を争う(?)槙からの擬似宣戦と読んだようですが、“(番としてではなく)それぞれに愛を斥けた孤独な戦士としての人生を歩んできたがゆえに、出会って惹き合っても協調・融和より勝負・凌駕の文脈で相手を見てしまう”のは、まさに修子と槙の現在及び将来を映し出すよう。

 「人はどんな理由ででも人を殺せる、怒り、不安、嫉妬、憎しみ、欲望…そして愛でも」

 29話で、日ノ原氏殺害の詳細を語ったときに修子が言い、槙が兄の事件と5年前の再会について打ち明けたときに再び引き合いに出したこの言葉が、2人のクライマックスに結びつくような気がします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ただいま、おかえり

2007-08-18 21:42:21 | スポーツ

 ラジオで甲子園の高校野球中継を聴いていると、実況のバックに聞こえるブラスバンドのナンバーで、ふとタイムスリップしたような気分になることがあります。

 ピンクレディー『サウスポー』、ずばり野球をテーマにした歌ですが、リリースは78年。実に29年前の曲です。

 いまアルプスでこの曲を演奏している応援団も、合わせて踊るチアガールズも、応援を受ける選手たちも、リアルタイムでこの曲が、ミーちゃんケイちゃんの激しくて可愛くてちょっぴりエロい振り付けとともにTVで繰り返し流れていたことを知る由もないでしょう。

 せめて、指導する部長先生ぐらいは、先日の阿久悠さんの訃報を練習の休憩時間ぐらいに「これの原曲の作詞をした人なんだよ」と教えてあげたりしたかな。

 爆風スランプ『Runners』ですら89年。彼らにとっては“生まれる前に流行ってたらしい曲”です。

 山本リンダさんの『狙いうち』に至っては73年。ヒット曲番組を賑わしていた当時はリンダさんの微妙露出な衣装と振りにばかり目が行っていましたが、これこそ曲調、構成、歌詞、何から何まで“スポーツ応援ソングに使われるために作られたような”曲ですね。

 創価高校の応援では他校より多く演奏されているかな?と思いきや、確かめられる前に敗退してしまいました。

 『金色の翼』第35話に戻ってみます。

 「“ただいま”って言ったら“お帰り”って言ってくれる人がいるのはいいものね」と槙に笑みを見せ庭先での線香花火を楽しんでいた修子が、槙の「俺たち結婚しよう、日ノ原氏の遺産は一族に返せば、せめてもの(氏殺しの)罪滅ぼしになる」とのプロポーズに一転態度を硬化させ、「私にとって結婚は檻のようなもの」「愛するなんて、相手から自由を奪うか、相手の自由になるか、お互いの自由を束縛することだわ」と言い放って、奥寺にしなだれかかる姿さえ見せつけました。

 「淋しい女だな、あんたは」と言い捨てて槙が出て行った後、斎戒のように湯船に身を浸し、短い2人の夏の日々を思い返し涙ぐむ修子。

 愛し愛され一つ処に巣をいとなむ幸せを、何ゆえそれほどにこの人は拒否するのか。

 愛さない、愛されないという砂漠のような自由に、何ゆえそれほどに拘るのか。

 思い当たるのは、彼女がこの、幼時を思い出させる古い家に槙とともに始めて立ち寄ったとき語っていた両親との別れです。彼女の中学校入学式の前日、隣家からの貰い火で自宅が全焼、自分と弟はシーツで身体を縛って窓から脱出させてもらって助かったけれど、逃がしてくれた両親は煙に巻かれて死亡してしまった。

 生き残った弟と2人で親戚宅を転々、そこから修子の“自分の居場所”を求めての渇望の旅路が始まるのですが、大切なのは“自分を助けるために、最愛の人たち=両親が命を落としてしまった”“自分を愛していなければ、彼らは死なずにすんだ”という原体験のほうだと思います。

 (もちろん、18話で彼女自身のクチから涙とともに語られたこの回想が、金目当てで近づいてきたと察しのついている槙を本気にさせるための“飴とムチ”の“飴”だった可能性もありますが、人間、ためにする計算ずくのウソにも、アタマでの計算ずくであればあるほど人間性の本質を映し出す“一分のマコト”は含まれるものです)

 その後の彼女の生き方は、そばでつぶさに見てきたはずの弟・玻留が2人きりのときはしなくも漏らす言葉の端々「姉さんには珍しいね、あんな金のない男(=槙)、とっくに用済みかと思った」(33話)「何だよ、本気で男に惚れたみたいな顔すんなよ」(34話)で察せられるでしょう。

 修子は、愛に伴う束縛や自由の喪失どうこうより、“愛してくれる人が、自分への愛ゆえに滅ぶ”ことが何より怖いのだと思う。

 だから「愛しているから結婚しよう」と、金や打算抜きの純な真情を向けられると必死に斥けるのです。

 片や槙も、本気で愛し合っていたはずの恋人を殺して逃亡中の兄という“愛ゆえに滅びた者”を大切な身内に持つ男です。

 愛したい気持ちが人一倍強いくせに、それゆえ愛を怖れ、愛を嫌悪し、愛を拒む2人。

 35話の中では、姉の内面の揺れに気づいた玻留に荒らされた部屋で修子が煙草を見つけ、槙に冷たい別れの言葉を投げながら、特に吸いたくもなさそうなのに火を点けて一服のあと燻らすシークエンスが良かった。

 修子の、本編初めての喫煙シーンで、槙に愛想を尽かさせるためわざとすれっからしの振りをしたと大筋では受け取れますが、しゃがみ込んで点火する仕草が‘槙に出会う前’の‘断固愛を求めない、利用できるものを何でも利用して生きてきた自分’を呼び寄せ“下りて来させよう”とする“儀式”のようにも見えた。

 何より、彼女は「あなたを愛してるなんて一度も言った覚えはないわ、そこだけはウソはつかなかった」と仮面のような顔で言い放ちながら、みずから“煙に巻かれよう”としていたのです。

 愛されて滅ぼすよりは、愛して滅ぶ側でいたい。彼女の自分でも意識しない切なる願いが雲間の月のように透けて見えた、美しい場面だったと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人肌気温

2007-08-17 22:24:38 | テレビ番組

 どうやら当地は昨日で完全に猛暑“終戦”。

 今日は、なんと日中の最高気温が、昨日の明け方の最低気温を下回るという、“ひとり時差ボケ”みたいな、ひと晩で季節が移行しちゃったような気候になりました。

 先週末から、原因不明の、たぶん夏負けと思われる微熱で臥せっている家族も、こう涼しくなると身動きが楽になるせいか、そわそわ起き出して片付けものを始めたり、TVで高校野球を観たり。

 不思議なことに、覚醒直後の朝一番より、洗面して軽いお粥食をとった後や、食後の休息の後、お昼前ぐらいのほうが体温が落ち着いている。涼しくなったとは言っても湿度が高めで寝苦しく睡眠が浅いせいかも知れません。

 主治医の内科の先生によれば、血液検査も胸部X線も炎症・感染症の徴候は見当たらないので、安静にしていれば自然と退潮するでしょうとのこと。ホッとしたような、宙ぶらりんなような。

 PCで月河がいつも見ている気象庁の全国観測地点別一覧のページを見せ、「今朝は京都(37.7℃)ぐらいあって驚いたけどお昼に津山(37.2℃)になって、いま高松(37.1℃)」「平熱が横浜(35.6℃)か千葉(35.7℃)ぐらいだから、せめて津(36.1℃)ぐらいにならないかな」「姫路(36.2℃)でもいいや」なんて、鉄道少年みたいな話にいつの間にかなっています。

 今回、幸いなことに解熱剤を要するまでにはなっていないのですが、救急搬送レベルの高熱から、起き出すわけにいかない程度の微熱、平均的平熱、高齢者のちょっと低めの平熱まで、ずらり日本列島のどこかで最高気温で記録しているというのがすごい。

 猛暑と言うより、もはや“日本発熱”。

 なんか、化学工業メーカーかエネルギー産業の社名のようだな。

 体温と外気温があまり近接してくると、体温中枢も、バランスとるためには下げていいのか、はたまた上げるべきなのか、迷ってしまうのでしょうか。

 そう言えば中央競馬の馬インフルエンザ問題も、昨日の第一報から一転、とうとう今週の開催中止が決定しました。夏ローカルの真っ只中で、一線級は夏休み放牧中だったりもしますが、2歳新馬のデビューや、秋GⅠ出走予定組の調整にもじわじわジャブになりそうです。

 早めの収束をお願いしたいような、お財布のためにはもう一週ぐらい休んでくれてもいいような。

 『金色の翼』第35話は、何が何でも折り返しの今週中に修子vs.槙を対立構図に持ち込もうとするあまり、ちょっと話が強引でした。

 今日放送分を味読するためにはかなり“想像力の爪先立ち”が必要です。

 放送のない土日にゆっくり、アタリメのように咀嚼することにしましょう。果てしなく味が出るんだな、これが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする