イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

ふり仮名もつけないと

2009-01-26 00:17:02 | ニュース

先週のオバマ大統領就任式の模様、ワシントンにどんだけ人が集まるかだけでも見たいと思ったのですがナマ中継が2510~ではさすがに自信がなく、録画して翌日見ました。300万人とまでは行かないけど、200万人は実際集まったらしいですね。誰がどう数えたのでしょうか。

現地の気温がマイナス7℃の冷え込みのため、ヨーヨー・マさんらの祝賀合奏が録音を使った“クチパク”だったとか、もともと大っきかったアレサ・フランクリンさんがさらに爆発寸前に膨張してたなどはさておき、とにかく20分弱の就任演説の間じゅう、オバマさんが一度も原稿らしいものを見なかったことに驚きました。内容以前に、その段階で感動ものでしたね。

非高齢家族とTVに映らない場所の、視線の先で、スタッフ50人くらいがかりで看板サイズのでっかいカンペ持って立ってるんじゃないか」1点を見つめたままだと不自然だろうから、持って視線の速度で歩いたり走ったりしてるかも」「速く行きすぎて読み損ないそうになったら、さりげなく“back!”とか“turn!”とかスピーチに混ぜるのかもね」「んじゃChange!”っつうのは“次のページ”って意味なわけだ」「しかし、会場の群衆にソレばれるだろう、報道封鎖すんのか」「後ろの方は見えないからほんものの群衆だろうけど、カンペ周りはエキストラで固めるわけよ」「『劇場版仮面ライダー555 ~パラダイスロスト』の1万人エキストラのUS版ね」「にしても50万人は要るぞ、この不景気に豪気だな」「弁当代程度の心付け渡せば、歴史の瞬間に立ち会えるわけだから集まるっしょ」「オバマTシャツじゃこのシーズンに似合わないから、オバマタオル、オバマ手拭とかでもいいか」「オバマ饅頭、オバマ羊羹も」「大相撲の升席みたいだね」……等とバカなこと言い放題。

やはりあちらには、原稿に頼らない前提の“スピーチ文化”“演説文化”というものが厳然とあるんでしょうな。とにかく不特定多数のオーディエンス相手に、よどみなく、表情も抑揚も豊かに、要所に名文句織り交ぜつつ一席ぶてる度胸、能力の無い人は、いくら高学歴でも、思想が高邁でも、大統領どころか州議会、市議会、ひいてはハイスクール生徒会級の選挙すら当選の目はないでしょうね。

それに比べ日本では、国会の所信表明にしても代表質疑にしても、原稿、メモ、カンペ虎の巻のたぐいが手元にないとまったく立ち往生な人が実に多い。もっとミクロに言えば、職場や学校の訓示、朝礼、冠婚葬祭の祝辞弔辞レベルでもメモ頼みなことが多いのではないでしょうか。日本人の“字で紙に書いたもの信仰”は、よその国は知らないけどアメリカ人よりは100倍ぐらい強いと思う。

あちらに、表情やベシャリやジェスチャーの“パフォーマンス”文化があるとすれば、こなた日本の“字で書いたもの信仰(と言うより依存)”は、単一言語・単一公用語国家独特の識字率の高さが支えているのではないかと思うのですがどんなもんでしょう。字で書いたものを見せても通用しないから、しゃべり言葉で訴求する、しゃべりも通じなければ身振りと表情で意味通じさせ、なんなら感服させるという差し迫った必要性がない(=日本全国どこでもみんな日本語読める)ゆえに、日本には演説パフォ文化が育たなかったのです。

要するに、「原稿無しでカッコよく長々名演説できるからって、原稿読み読みより偉い、優秀とは限らないぞ、文化の違いなだけだぞ」ということを言いたかったのでした。

それにしてもNHK『だんだん』はあと二ヶ月以上あるのにどうもたせるんだろう。こないだメジャーデビューしてあっという間にチャート1位になったと思ったら、双子ユニット早くも解散宣言ですって。

昼ドラで嫌というほど目にする“ビジネス”“○○業界”がらみ描写の、視聴者を舐め切った杜撰さがここでも露呈している。音楽業界、芸能界、いくらなんでもあんなに甘っちょろゆるゆるの世界ではないでしょう。2003年かそこらの日本の邦楽シーンで、昭和の名曲とは言えアレンジにも演出にもさしたる目新しさもない双子のデュオでチャート1位になれるというのが、もうまるっきりお伽噺、絵空事としか思えない。パラレルワールドなんでしょうか。

それにしても、かりにもチャート1位になったアーティストがセキュリティもない普通のマンションから事務所にも大学にも通い、出待ち・入り待ちストーカーの気配もないのは不自然。

音楽に関してはシロウトの月河でも、トップ1アーティストの1st全国ツアー皮切りが、生バンドを帯同しないステージというのはあまりにも茶番だと思いました。カラオケバック?なら商業施設や温泉ホテル、イベント会場の歌謡ショーと変わらないのでは。

まぁ細かいこと小姑みたいにつついていても始まりませんが、スタッフや脚本家さんがミュージックシーン、芸能界、あるいは音楽で食べて行こうひと旗あげようと夢を持つ若者の世界にさしたる興味がなく、心をこめて取材し描写彫琢する気もないなら、ドラマの舞台に採り上げなければよかったのに。そんなに日本版『ふたりのロッテ』をやりたかったのなら、ほかにいくらも料理の仕方があったはず。やはりこのドラマの作り手は演じる三倉茉奈・佳奈さんの“食材”としての価値を過大評価し過ぎていて、料理法や盛り付けの多少の難は食材そのものの味でいくらでも埋め合わせがつくと思っていそう。

三倉さん姉妹自身は、過大評価につぶされずよく健闘していると思うのです。特に2人きりのシーンより、シジミジルメンバー、ボイスレッスンの衣川先生(森公美子さん)、音楽事務所スカウト兼Pの石橋(山口翔悟さん)など、他人が同席する場面で“双子だけれど18歳まで別々の環境で育った”ようにちゃんと見えるのはすごい。めぐみ(三倉茉奈さん)は温かい家族に囲まれ何不自由なくのびのび育った娘さんゆえにどこか社会性が甘ちゃんで、のぞみ(三倉佳奈さん)は芸妓になる前提で祇園しか知らない特殊な育ち方をしたため、祇園を離れ一般社会に放たれたいまは、厳しくピリピリ緊張しているところと途方もなくものを知らないところが同居して、何かにつけてイビツ。そういう佇まいの差を、「~かね」「~だが」の出雲弁と「~ますえ」「~どすか」の京都弁のみに頼らず、顔つき目つきでも随所で表現できているのは立派です。

彼女たちの演技者としての力量や努力の跡が、ドラマのおもしろさにつながってくれたらいいのですが、やはり週6話で25週、半年放送という容積のデカさゆえに、逆に企画難になっているのかも。まずロケ地、舞台になる地域を決めて、そこからヒロインの設定や目指す職業の世界を決めて…というNHK朝ドラ固有の縛りも、作品を窮屈にしているのでしょうね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする