らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

ラッキョウ栽培方法

2021-06-09 | 家庭菜園

毎年ラッキョウを植えているのですが、冬越しが上手くできず、春先になると殆どの株が枯れてしまいます。
原因は分かりません。
菜園仲間からは、「ラッキョウ栽培は手間もかからず、何もしなくてもできるよ」と簡単に言われるのですが、今までに満足できるような結果になったことがありません。
ネットで栽培方法を調べると下記のようになっていました。

「栽培方法」
1.植え付け時期
  関西地方は8月下旬~9月中旬
2.畝の準備
  植えつけの2週間前までに、1m2当たり150~200gの苦土石灰を散布してよく耕します。
  1週間前までに、畝全面に1m2当たり堆肥2kgと化成肥料を1m2当たり120gを散布し、土に混ぜ込みよく耕します。
3.植え付け
  1条植えの場合は畝幅60cm、2条植えでは幅80cmの畝に、条間を40cmとし、
  いずれの場合も球根は、20cm間隔で2球ずつを、球根の先端がわずかに見えるぐらいの浅植えにします。
  植えつけ後に、たっぷり水やりをします。
4.追肥 
  植えつけから2ヵ月後に、株元へ軽く土寄せし、500倍に薄めた液体肥料を、水代わりに与えます。
  その後、週に1回の割合で2~3回追肥し、更に、3月上~中旬に1回、化成肥料を、1m2当たり120gを株のまわりにばらまいて追肥します。
5.収穫時期
  収穫時期は6月です。



一昨日、ラッキョウを収穫したところ、初めて満足いく結果が得られたのです。
今年は冬になっても株が枯れず、植えた20株ほどの殆どが順調に生育しました。
ネットの栽培方法と違うところは、「4の追肥と土寄せ」で、年が明けた2月初めに1回行っただけです。
これも毎年同じように行っているのです。
原因は分かりませんが、兎も角、満足できた今年のラッキョウ栽培でした。

「収穫の目安」
葉が枯れてくると収穫時期と判断しています。

・茎が枯れて収穫時期になったラッキョウの株です。


昨年秋に2球ずつ植え付けた株に、各々10球前後のラッキョウができていました。

・これが1株に生っていたラッキョウです。


掘り起こした1株ごとのラッキョウの塊です。


今年収穫できたラッキョウの全てです。
この中から大きくて形の良い50~60粒ほどを秋に植える種球として残します。



今年のラッキョウ栽培は‟結果オーライ‟でしたが、自然相手の菜園は難しいですね。

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鰹節の由来

2021-06-07 | 雑学

2013年に和食がユネスコの無形文化遺産に登録されたのがきっかけとなって、世界的な和食ブームが起きています。
その和食に欠かせないのが「和風だし」です。
和風だしとは、カツオや昆布、椎茸や煮干しなどさまざまなものから取っただしのことを言い、洋風のだしと比べるとあっさりした風味と上品な香りが特徴です。
和風だしの材料の一つに鰹節があります。
その産地と言えば高知県が有名ですが、発祥地は高知県ではなく、和歌山県でした。
何故なのか?
今日は鰹節の由来について調べました。

「鰹節の発祥地」
高知県はカツオの一本釣りで有名であり、名産品に鰹節があります。
その鰹節の発祥地は高知県ではなく紀州(現和歌山県)なのです。

江戸時代初期には鰹節と言えば「熊野節(熊節)」だったのだそうです。
鰹節の起源は室町時代で、当時は加工する技術もなく日持ちする食材ではありませんでした。
これを長期にわたって保存できるようにしたのが、江戸時代に登場したいぶして乾燥させる熊野の燻乾法(ばいかんほう)でした。
この手法を応用してカビ付けする製法も考案され、やがて紀州全域に広まりました。
ところが、紀州のある一人の漁師が土佐(現高知県)に流れ着いたことから、鰹節の製法が広まることになったのです。



「高知の鰹節の始まり」
1674年(延宝2年)紀州は熊の浦の漁師・甚太郎が、漁の最中に流され土佐清水に漂着しました。
その時に、甚太郎が鰹の燻乾法(ばいかんほう)を土佐の播磨屋佐之助という人物に伝授しました。
これが高知の鰹節の始まりです。

「鰹節が全国へ」
そしてこの鰹節の製法を関東に伝えたのが土佐与一という男です。
名前は土佐ですが紀州出身の男です。
甚太郎が土佐に漂着してからほぼ100年前後となる1700年代後半に、若くして地元を飛び出した与一は伊豆、安房(千葉)へと渡り、そこで鰹節の製法を伝授しました。
その後、この製法は全国へと広がっていきました。

安房(あわ)に住み着いた与一は、やがて郷愁の念に駆られるようになり、紀州に帰ろうと思い立ちますが、紀州では門外不出とされていた鰹節の製法を他国に伝えたという罪で里帰りを許されず、結局、安房の国で生涯を閉じることになりました。

「節がないのになぜ鰹節」
鰹節は生のカツオをいくつかの工程を経て乾燥させたものですが、鰹節には節など見あたりません。
なぜ「節(ふし)」という漢字が使われているのでしょうか?
鰹節は、製造工程中、煙でいぶして作られることから「かつおいぶし」と言われ、これがが転じて「かつおぶし」と呼ばれるようになったのではないかと言われています。

 

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「あすなろ」語源

2021-06-05 | 雑学

現在、NHKの朝の連ドラで「おかえりモネ」が放送されています。
放送直後の第2回目だったでしょうか? サヤカ(夏木マリ)がモネ(清原果耶)に「あすなろ」の語源について語るシーンがありました。

その中で、ヒバの木は「明日はヒノキになろう」と思いながら成長するといわれているので、別名『アスナロ』ともいいます。
ヒバはヒノキにはなれないが、雨・風・雪に耐えながら長い時間をかけて成長するため、緻密で立派な木になります。
と、説明していたのです。

そこで今日は、「明日はヒノキになろう」という思いの「あすなろ」の語源について、調べてみることにしました。

「あすなろ(翌檜)」
「あすなろ」はヒノキ科の常緑高木です。葉はヒノキに似て大きく、鱗状に重なり合っています。
山や森などで見ることのできる日本個有の樹木で、北海道の南部から本州や九州、四国に分布しています。

「あすなろ」という言葉の起源や意味は、「檜(ヒノキ)」よりも木が小さいことが多いため、「明日はヒノキのようになろう」という成長の意思を持っているという意味から「あすなろ」と言われるようになったとされています。

・アスナロの葉です(ネットより)


「あすなろの語源」』
しかし、「あすなろ」の語源を調べてみると、「明日はヒノキになろう」というのは俗説で、次の説が有力とも言われています。
「あすなろ(翌檜)」は古くは「あてひ」といわれていて、高貴なヒノキであったということです。
アテは高貴を意味する言葉で、アテヒは「気品のあるヒノキ」という意味であり、これが「あすなろ」の起源とされています。
ヒノキに比べて葉っぱが分厚いから、「あつひ(厚桧)」と呼ばれたのが始まりで、「あつはひのき(厚葉桧)」から「明日は桧」になったとの説です。

「あすなろの意味」
なお、「あすなろ」を多くの人に印象付けたのは、1955年に東宝で映画化された井上靖の小説「あすなろ物語」です。
この作品は黒澤明監督の助監督を務めていた堀川弘通の監督昇進を記念して黒澤監督自身が脚本したことでも有名ですが、一般的なこの物語についての解説では、「明日はヒノキになろうと願いながら、永遠にヒノキになれない悲しさ」などと、元気がない人生の話の様な意味で捉えられています。
しかし、元気のない人生どころか、逆に、「目標を立ててそれに向かって進んでいくということが大事」だと教え、「人が伸び行く姿、そして、たゆまぬ努力を続けて伸びる子供の成長を願う」という意味が込められているとも言われています。

朝の連ドラのセリフの中から「あすなろの語源」について調べてみました。
「明日はヒノキになろう」と思いながら成長するといわれている『アスナロ』でしたが、元々は高貴なヒノキであることもわかりました。
木の名称は意外と伝説的につけられているものですね。

 

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水無月と和菓子

2021-06-03 | 趣味

一昨日から6月に入りました。
当地区では6月中旬には田植えが始まりますが、毎年、当地区で一番早く田植えをすることで知られているF氏はすでに田植えを終えたようです。

「水無月の由来」
ところで、6月は陰暦では「水無月(みなづき)」と言いますが、梅雨の時期で降水量が多い月なのに何故、「水無し月」と書くのでしょうか?
今日はその由来について調べました。

調べてみると、「水無月」の「無」は「無い」という意味ではなく、 「の」の意味合いで使われている助詞なのだそうです。
6月は田植えに水が必要なことから、「田に水を引く月」、即ち、「水の月」で、「水無(の)月」となったと言うことです。

・田植えが終わったF氏の田んぼです。(ここに隣接して私の畑があります。)


「和菓子・水無月」
一方、「水」とは関係がありませんが、関西ではよく知られている京都の名産品に「水無月」という和菓子があります。
京都ではこれを6月最後の日に食べる習慣があるようです。
水無月は三角の形をした和菓子で、ういろうに小豆をのせて固めた、羊羹のような寒天のような食べ物です。

・京都の和菓子・水無月です。(ネットより)


「和菓子「水無月」の由来」
和菓子「水無月」の由来は、旧暦の6月1日に氷を食べることで、夏バテを予防するという風習から来ています。
6月1日に氷を食べて夏バテ予防を祈願するのは、元々、室町時代の宮中で行われていた行事でした。

この行事を行うことによって暑気払いをしていたのですが、当時の庶民には高級品である氷を入手することができませんでした。
その代わりとして、氷に似たお菓子を食べることによって、夏バテ予防をすることになったのだそうで、
それが和菓子「水無月」の始まりでした。
三角形の形は氷のかけらや氷の角を表しており、小豆は邪気払いや悪魔祓いという意味で乗せられているそうです。

美味しそうですね。
水無月(6月)の蒸し暑さを、冷えた水無月(和菓子)を食べて、夏バテ防止を試みてみたいです。

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祭りでは 何故みこしを担ぐ

2021-06-01 | 雑学

日本の各地にはお祭りという伝統行事があります。
大阪にも祇園祭(京都)、神田祭(東京)と共に、日本三大祭りの一つに数えられている天神祭りがあります。

天神祭りは6月下旬より7月25日の本宮の夜まで、市内各地で様々な行事が開催されるのですが、昨年はコロナの影響で中止になりました。
先日の発表では、今年は規模を縮小して行われる予定とのことです。

天神祭りでもそうですが、お祭りではお神輿が担がれます。
何故なのでしょうか?

「神輿」
「輿(こし)」とは、人を乗せ、人力で持ち上げて運ぶ乗り物のことで、身分の高い人を乗せるために使われていました。
「神輿」は読んで字のごとく神様が乗るもので、更に「御」をつけて御神輿と呼ぶこともあります。

普段は神社にいる神様の霊(魂)が、お祭りの時に神社から氏子の町内や御旅所へ赴くときに一時的に神輿に鎮座します。
簡単に言えば、神輿はお祭りの時の神様の乗り物なのです。

・天神祭りの鳳神輿です(ネットより)


「お神輿を担ぐ理由」
・神輿を担ぐ意味は様々ですが、一般的には神様がお祭りの時に神社から出て、偉大な力を振りまき、厄災や穢れを清めるからと言われています。
・神輿を激しく動かすのは神の霊威を高め、豊作や大漁を願う意味があるそうです。
・また、神輿をぶつけたり、水をかけたり、激しく揺さぶるのは、偉大な力を散布し、神様の力をたくさんいただけるようにという意味もあります。
・そして、人より高い位置で、肩に担がれるのは、神様を敬愛する気持ちの表れとされ、御旅所などでの休憩時も神輿は地面に下さず、台の上に置かれています。

神様は激しく揺さぶられるほど、次第に興奮して、威力が増してくるようです。
コロナ禍の今、神様の偉大な力をいただいて早期に収束することを願いたいものです。

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