比較的温暖な大阪南部の熊取地方も、寒波の襲来で先日から寒い日が続いています。
昨日までの3~4日間は最低気温が5度を下回り、最高気温も8度前後ととても寒く、雪花が舞った日もありました。
このような日には畑には行かず、録り溜めているドラマを観ることにしており、先日は内田康夫原作の浅見光彦シリーズ第14弾の「後鳥羽伝説殺人事件」を観ました。
「後鳥羽上皇の配流ルート」
後鳥羽上皇は承久の乱に敗れ、隠岐へ配流されるのですが、そのルートは、『承久兵乱記』 では、 京都から播磨明石浦へ出て美作(現岡山県)と伯耆(現鳥取県)の境を越えて出雲大湊へ着き、そこから隠岐へ向うと記されています。
一方で、備後(現広島県)から雲南(現島根県)の一部にかけても配流伝説が残っており、ドラマはこのルートの伝説をもとに作られています。
ドラマは、浅見光彦が後鳥羽上皇が隠岐へ配流されるときの伝説が残る尾道から出雲へのルートをたどり、浅見家を襲った哀しい事件の謎に挑むものです。
浅見家を襲った哀しい事件とは、12年前、妹・祐子が卒業旅行中に火災に巻き込まれ、非業の死を遂げた事件です。
この時、一緒に旅をした祐子の友人・正法寺美也子もその後、後鳥羽院御陵で遺体となって発見されたのです。
警察は火災事故と処理していたものが殺人事件に発展し、光彦がその謎を解く形でドラマが展開していきます。
「百人一首第99番の和歌」
ドラマの内容は兎も角、この中で後鳥羽上皇の和歌が出てくるのですが、後鳥羽上皇と言えば、百人一首の第99番に次の歌が登場しています。
今日はこの歌についてご紹介します。
「人もをし 人も恨(うら)めし 味気(あぢき)なく 世を思ふ故(ゆゑ)に もの思ふ身は」後鳥羽院(99番)『続後撰集』雑・1199
「現代語訳」
人間がいとおしくも、また人間が恨めしくも思われる。つまらない世の中だと思うために、悩んでしまうこの私には。
・百人一首第99番、後鳥羽院の和歌です。
「語句の説明」
・【人もをし 人も恨(うら)めし】・・・「をし」は「愛(を)し」と書き、「愛おしい」という意味。
「恨(うら)めし」は「恨めしい」という意味です。
・【あぢきなく】・・・「面白くなく」という意味になります。
・【世を思ふ故(ゆゑ)に】・・・「世を思ふ」は「世間・天下のことを思いわずらう」という意味です。
・【もの思ふ身は】・・・「もの思ふ」は自分の心に沸き上がるさまざまな思いのことで、「身」は作者自身を指します。
「和歌の背景」
後鳥羽院のこの歌は、承久の乱の9年前、上皇になって14年目、33歳の時に詠んだ歌と言われています。
後鳥羽院は武家から政権を取り戻すことと、歌を作ることの二つに生涯を懸けた天皇ですが、承久の乱で天皇の政治上の画策は失敗します。
この歌はその苦悶の生涯から自然に生まれた嘆きであり、憎い連中に対する怒り、思うようにならない世の中に対する嘆きが強烈に詠まれています。
「承久の乱」
なお、承久の乱というのは、鎌倉時代の承久3年(1221年)、後鳥羽上皇と鎌倉幕府 北条義時 との間で起こった戦いです。
執権北条義時追討の院宣を出し、挙兵したものの召集に応じた兵力は少数で、幕府の大軍(19万騎とも)になすすべなく完敗しました。
即刻、後鳥羽院は隠岐へ、息子順徳院は佐渡へと配流となり、土御門院も自ら土佐へと落ちたのです。
「後鳥羽院(1180~1239)」
後鳥羽院とは、第82代後鳥羽天皇(在位1183年~1198年)のことで、いまから830年ほど前の天皇です。
「院」とは位を退いた後の呼び名です。
19歳で譲位した後は、24年間にわたり、天皇を後見する院政を行なって、権力を維持していました。
貴族社会の終わりに立ち会った後鳥羽院は、政治権力を奪われた立場にあったことから、その復権を強く望み、鎌倉幕府の権力者北条義時を打倒しようとして挙兵しましたが、失敗し、隠岐(現在の島根県)に配流され、60歳の生涯を閉じました。