らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

真田丸の史跡を訪ねる(7)玉造稲荷神社

2016-10-12 | 地元紹介

7回連続でアップした今回の「真田丸の史跡を訪ねる』シリーズは、今日の玉造稲荷神社で最終となります。

「玉造稲荷神社」
この玉造稲荷神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創建され、当時は比売社と称していました。
当神社には、587年(用明天皇2年)に蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承があるようです。

当神社の歴史は戦火による焼失と再建の繰り返しだそうです。
1576年(天正4年)の兵乱により本・末社、記録等を焼失するも、1603年(慶長8年)には豊臣秀頼の寄進により社殿、高殿(舞台)が再建されましたが、1615年(元和元年)の大阪夏の陣で再び焼失、1619年(元和5年)に時の大坂城代・内藤紀伊守を始め、氏子・崇敬者の寄進で再建を果たしました。
1863年(文久3年)11月には大坂大火(新町焼)で又も焼失し、1871年(明治4年)に造営されています。
その後、1945年(昭和20年)6月の大阪大空襲により再度灰燼に帰しましたが、1954年(昭和29年)には現社殿が建立されたと言うことです。




「玉造稲荷神社拝殿」
主神は宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)で、この神は素盞嗚尊と神大市比売(かむおおいちひめ)との間の子で衣食住を司る神だそうです。
稲の精霊であり、穀物の神として古くから崇敬され、一般に稲荷大神として信仰されています。
江戸時代の『摂津名所図会』では、社名を「豊津稲荷神社」の名で著されており、豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の守護神」として信仰を集めていたと言われています。


「豊臣秀頼公の銅像」
玉造稲荷神社は、戦国時代には豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けていたとされ、度重なる戦火によって荒廃した後も、その度に 豊臣家、徳川幕府の大坂城代、氏子らの寄進によって再建されました。
1576年(天正4年)の兵乱により本・末社、記録等を焼失しましたが、1603年(慶長8年)には豊臣秀頼の寄進により社殿、高殿(舞台)が再建されました。

・この豊臣秀頼公の銅像は土台3m、銅像3mで、神社と大坂城を見下ろしていると言うことです。


「秀頼公奉納鳥居」
慶長8年(1603年)3月に秀頼公が神社再興時に奉納された鳥居です。
元は本殿正面に設置されていようですが、阪神大震災により一部損傷を受け、上部、脚部に分け現在の場所で保存しているものです。
神社では、「柱の部分が破損しているものの400年の歴史を刻む当社の歴史的遺産である」としています。



「胞衣塚大明神」
豊臣秀頼の胞衣(えな、大坂ではよな)を祀る社であり、当初は大坂城三の丸に当たる現在地に胞衣が埋められ、その後は豊臣家を慕う当地の人々により密かに祀られていたとされています。
胞衣(よな)とは胎盤のことです。
1983年(昭和58年)大坂築城400年を記念して、ゆかりの当神社に祀られたそうで、子の悩み、夜泣きに霊験あらたかとされています。



「利休井」
往時この神社の南西部には千利休の屋敷が建っていて、屋敷内には良質の井戸があり、利休がその水で茶を点てていたと伝わっています。
江戸期にはその水で酒蔵も営まれていたそうです。
この井戸は平成18年8月、NPO法人「大阪城甲冑隊」によって再掘されました。