Steve Jobs' Commencement adress (2005)


 後期から英語での授業を始めるわけなので、さびついた英語をブラッシュアップしてます。その一環として、TOEFL受験用クラスに出させていただいてます。

 きのう先生から参考ということで、有名なSteve JobsのStanford大学卒業式スピーチのテクストをいただきました。

 はじめて全文を読むのですが、これは素晴らしいですね。さすがにスタンフォード大学が © つけておぽんぽんに入れてしまうテクストだけのことはあります。

 フランス語も素晴らしい言葉ですけど、英語も当然ながらに素晴らしい。
 もっとも世の中に、どの面から見てもぜんぜん素晴らしくないという言語は存在しないように思いますけどね・・・

 Don't let the noise of other's opinions drown out your own inner voice.

なんて、ほんとそうだと思いました(てなこと言ったら、だからあんたはジコチューなんだよ、という声がその辺からうわーっと来そうですが。)。

 ところで、わたしが前から英語で気になっているのは、たとえばこの文の"drown out"みたいな言い方なんですね。これが「なぜフランス語を英語で教えるか」ということにも関わってきます・・・ (つづく)
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英語でフランス語を教える理由(その5)


このエントリーから続きます)

 いわゆる「第二外国語」教育が日本であまり意義が明白に感じられないものになってしまっている最大の原因のひとつは、教育の枠組み自体が明治のときに作られたもののままで、21世紀の現実に対応した形になっていないということであるように思います。

 明治のときは、脱亜入欧、それもドイツをモデルに国づくりするから、ということで英独仏語が教育外国語ということになったわけですね(もっともフランス語はやってもあんまり就職なかったんですよ。英語、ドイツ語をやった人たちは食えた。フランス語は食えなかったんです)。
 あとの国・地域は「後進国」なわけであまり顧慮されなかった。日本は上の方を見るんだ! という感じだったと思います。横とか下の方とかは見ない。それが精神的高さを希求する心とうまく合っていた。

 21世紀の今はそうではないです。BRICSはくるし、二番手の新興国がどんどん出てきます。Bのブラジルのポルトガル語は日本と移民による繋がりもあるのだしもっと振興されていいはず。Rのロシアは近隣国でもありコミュニケーションを密にすれば日本にプラスになる関係を結んで行けるはず。Cの中国は言うまでもないです。あとアルゼンチンとかトルコとかメキシコとかインドネシアとかベトナムとか・・・ 日本は多方面のことを知らなければならないです。というかむしろそういうのを楽しく学べて活用できる時代になっていると思うのです。ひとことで言って:

「精神的高みは、横方向にもある」

と考えてコミュニケーションを進めることに意義を、価値を見出していく方がいいと思うんです。

 そうすれば、この国は簡単に中国や韓国に負けたりはしないと思いますよ。
 わたしは、若い人たちを信じています。

 いまの日本は、広範囲の、多数の国・地域で通用し、情報がとれる言葉の教育を優先すべきだと思います。それがとりもなおさずグローバルに通用する人材を育てることになると思います。

 英語が最優先で教育されるのは、当然この理由からのはずです。
 ならば第二外国語についても、仏西中露アラビアを同列に並べたような教育をデザインしてはどうかと思うのです。
 英語を特権的な位置に置き(現状では英語はその扱いを受けるに十分値します)、あとの広範囲使用言語を明確に「サブ」の位置に置いて外国語教育をデザインするのです。
 わたしが英語でフランス語を教えたいというのは、ひとつにはそういう考えがあるからです。

 もちろんドイツ語には、これまで日本を知的に牽引してきてくれた功績へのリスペクトを持つべきです。ドイツ語には、それなしには理解が難しい明治以降の日本の大きな部分への導入言語としてしかるべき地位を得てもらわないと困りますが、基本的には広範囲コミュニケーションの言語を中心に言語教育を考えた方がいい、そういう時代に日本は入っていると思います。

 わたしはとくにスペイン語を中心に据えて第二外国語教育を構想してみたいです。
 多数の国、広大な地域でコミュニケーションに用いられるスペイン語のあり方をどのように若い世代に教えるかというところから思索・議論を始めるのがよいと思います。
 (同様にフランス語も、まずは広い地域で用いられている言語としての現状から教育をデザインした方がいいと思います。フランス語は、国家としてのフランスの植民地主義・帝国主義を憎むあまりできるだけ軽視・無視したいという願望が日本には潜在的に存在してしまうわけですが(これ、ほんとですよ)、あまりその願望が大きくなると、当のフランス植民地主義への最大の抵抗者だったアルジェリア人と一対一で腹をわって話しすることができなくなる、という変なことになるわけです)

 明治のころにはスペイン語文学にはあまり活気がなく重要性がなかったのですが21世紀の今は事情がぜんぜん違います。ラテンアメリカ文学が世界の大文学として確固たる地位を築いたという事実を見据えて、それにふさわしい顧慮をラテンアメリカ文学を支える言語、スペイン語に与えるべきだと思います。

 ただこれがすでに難しい。
 日本の大学にはスペイン語の先生があんまりいなくて、スペイン語の意義・重要性を主張する声自体が上がらないのです。たとえスペイン語の先生のポストを増やしましょうという話になっても、目下の情勢ではどこかのポストを削らないといけないことになるでしょう。どこを削りますか?
 フランス語の先生の数はもう十分減らされてますからこれ以上減らさない方がいいとわたしは思うのですが、それは日本の全ての人の一致するコンセンサスということにはなってないでしょうね・・・
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