精神的高みは横方向にもあり


 「かなざわ・だいがく」に入れたい話ですし、また「フランス語教育」の話でもありますけど、普遍性があるのでカテゴリーはこれに。

 文法知識を高く、こまかく積み上げて行っても、それだけではフランス語はできるようにならないです。というか、そういう姿勢ではある点を越えればむしろ弊害の方が多いです。
 ひとが論理的合理性を追求することが必要であることは論を待ちません。しかし論理の過度の追及は―― わたしはデリダが「現象学的声」と言っていたのは簡単に言ってしまえば、まず最初はひとりで必死にものを考えているとき頭の中で鳴っている「声」のことであったように思いますから、「音声中心主義を批判した」という表現のみでデリダの思想をまとめてしまうのはミスリーディングだと思ってます―― は、目の前にいる人間が何を考え、感じ、求めているかを理解することとイコールにはなりません。
 
 コミュニケーションというのは横方向の営みです。知的にも文化的にも、あらゆる面で相手と合わせなければならない。合わせたく思わなくてはならない。

 学び手に、知識を上へ上へと積み上げることにのみ精神的高さを感じさせる教育には、わたくしは反対です。それは現代の趨勢にすらあっていません。

 ヨーロッパは経済的に危機的状況ですが、その言語教育思想、欧州言語共通参照枠の底流を流れる精神は見習わなければなりません。
 「もし、相手がゆっくり、はっきりと話して、助け船を出してくれるなら簡単なやり取りをすることができる」"Peut communiquer de façon simple si l'interlocuteur parle lentement et distinctement et se montre coopératif" レベルを、最初のレベル、A1レベルの尺度としようという思想です。
 これこそ最終的に欧州の強さを形成する思想になることでしょう。

 このような、横方向にも精神的高みを見る思想、姿勢に敬意を覚えてこそ、世界の現勢に疎くなり、もとから苦手だったコミュニケーション能力の向上も進まず、ずいぶん世界での存在感を希薄にしてしまった日本が、米欧の旧勢力に互し、中国、韓国や新興国の追随にフェアに対抗して世界に貢献しながら発展するという将来的展望も開けるというものではないですか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )