考えの糸


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 バタバタしているうちに、もう明日から新学期です。
 のんびりブログを書くのもままなりません。もうニューオルリンズのお話もまあ折りにふれて断片的にするしかないです。

 ところでニューオルリンズ、アメリカ合衆国でいちばんフランスとの差を感じたのは、「本」だったと思います。

 写真はカビルドCabildoという建物にあるナポレオンのデスマスクについてのポスターです。ナポレオンとニューオルリンズはそれなりに縁があるのでこんなところに展示してあるのです(これについても時間があればいろいろ思いを書きたかったですが)。

 このカビルドというところは元スペイン政庁の建物で、いまはルイジアナ州立博物館として立派な歴史展示がしてあり、ずいぶん興味深く見学しました。

 でもねえ、見学が終わったところに、フランスの博物館だったらほぼ間違いなくある図書コーナー、ブックショップが全然ないのですよ。
 これにはまいった。

 本さえ手に入れておけば、あとでじっくり自分の見た展示の実物の印象から、いろいろ思索、考えを繋げていくことができます。展示物についての本は、考えの糸を紡ぐ紡績機となってくれると思うのです。
 「そんなの、図書館に行けばいいでしょ」と言われるかもしれませんが、実物のある場に、それと関係のあるテーマの文字情報が紙媒体で集中して存在する、というのは非常に大事なことだと思うのですよ。
 日本に帰ってしまうと、せっかくルイジアナを訪れたのに思索の糸を紡ぎ出すよすががないんです。それをしようと思うと、それだけに専念して時間と労力を費やさねばならない。それはわたしには無理です。

 紙媒体の本、というか文字情報が自分の「モノ」としてそこにある、ということはいつでもそこから思索の糸を紡ぎ出せる状態に置く、ということだと定義できると思います。

 ただその本が言語的に、思索の糸を紡ぎ出すに足るレベルで完成されていないといけないですが(このエントリーでは「明王」の訳をちょっと問題にしましたが、"Bright Kings"では「賢い王様たち」にしかならない。少なくとも"Wisdom Kings"くらいにはしないと・・・ ただその"wisdom"「叡智」自体がどういうものであるかは仏教思想について物凄い勉強をしないと分からないところのものではありますが・・・ それから「明王」には「定訳」はないのか、とも思いましたが、実はこの「定訳」というのが曲者だというのも前から思ってます・・・)。

 口はばったいことを申しますが、兼六園の案内フランス語版は、訪れたフランス語使用者のみなさんが家に帰ってこれを読んでも、そこから思索の糸を紡ぎ出せるレベルに(言語的に)できているという自負があります(たとえば「藩校」をecole du clanにせずにecole seigneurialeにしたこととか。「藩」は"clan"が英仏語ともに「定訳」だと思いますが、それはまずいと思ったのです)。

 ・・・こういうことを申し上げると言いすぎかもしれませんが、こういうのが「フランス的」あるいは「フランス語的」なことなのかもしれないな、と思います。
 アメリカ人がカビルドにブックショップを置いておく意義を感じないとしたら・・・
 どうも英語自体にそういうものにあまり意義を認めない「思想」が纏わりついてしまっているのかもしれない、と思ってしまうのです。
 
 ・・・こんなことを思うのには、先日のロンドン暴動のときのイギリス人たちの反応、それに呼応した日本の人たちの反応をみて、英語の祖国イギリスにも、カビルドにブックショップを置かないアメリカと共通した「なにか」があるように感じたからでもあります。その「なにか」とは、思想というかメンタリティというか・・・
 今日はこのことについて詳しいことを考えて書いている時間がありませんが・・・

 「世界を、英語オンリーの世界にすべきでない」というのはわたくしも共有する思想ですが、わたくしの場合その根拠の第一のものは、このエントリーで述べたような思いなのです。



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