マンガのジャンル的特性

(前のエントリーの続き)

 8月30日が夏の終わり、という話を前のエントリーで書きましたが、今朝の日経をみたら、最近は学力低下を防ぐために八月中に始業式すませて授業再開する小中学校が増えてきているという話が載ってました。
 ううむ、よつば的世界はどんどん虚構になっていくんでしょうね(もともとかなり虚構ですけど)・・・ (;_;)

 さて、このマンガに注意をひかれたのには、主人公のよつばが出自不明の外国人だっていう設定があります。
 ただマンガ見ているかぎり、彼女のどこが外国人にみえるのか全く分かんないですね。
 だって「マンガ」なので、マンガ的描き方をされてますから(だいたいこのマンガ、登場人物に「鼻がない」シーンが多いんですから、外国人の外見をうんぬんするのにどのていど意味があるのか疑問です)。
 作中の人物たちは、よつばを見ただけで外人らしいというのが分かるんです。でも読者にはわからない。
 このへんにこの作品のよってたつ核心(のひとつ)みたいなものがある感じがします。なぜか、っていうのは複雑でうまく言えないんですけど・・・

 マンガおよびアニメはキャラクターの身体を可視化しながら人種を本質的に不確定にする、ということの重大な意義を最初に実感したのは『シンプソンズ』見ててだったと思います。マンガ的描き方というのはいろんな差異を無にしてしまいますが、とくに人種的差異を無に近くできる、というのはすごい特性だと思います。

 『ペルセポリス』のマルジャン・サトラピもアニメーションのもつこの性質に言及する発言をしてました(彼女のこの発言は伊藤剛氏が「マンガのグローバリゼーション」(東浩紀・北田暁大『思想地図vol.1』所収)で引用してます)。孫引きしますと:「実写だと自分たちとは顔つきの違う登場人物たちが住んでいる遠い国の話になってしまっただろうから。良く言ってエキゾチック、最悪なのが”第三世界”の物語。」(同書140ページ)

 よつばの場合はまた別の方向性でこの機能を有効に利用していると思います。

 
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