日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
さあ、今年のライ・フェスティバルはどうなるんでしょう?(2)
(前のエントリーから続きます)
それで今日8月2日のEl Watan報道を見ました。
ナスロは「オラン歌謡フェスティバル」そのものを乗っ取って、彼とAPICOの「ライ・フェスティバル」にしてしまおうと考えたのですね。 (^_^;)
彼は7月31日の会見で、二つのフェスティバルを折衷した名前、Journees de la chanson rai et la chanson folklorique (ライ歌謡と民俗歌謡週間)というのを提案しています。
政府も、オラン歌謡フェスティバル、などとぶちあげたものの、例によって官僚主導では組織が進まず、モタモタしていたところをナスロにつけいられたのでしょう。おそらくたいした出演者は集められていないはずです。
さて、現地時間の2日22時に始まるのは文化省主催のオラン歌謡フェスティバルなのか、それともナスロ主導の実質的オラン・ライ・フェスティバルなのか。
どっちになって、どういう歌手が出てくるのか。
始まってみないとわからない、というところが凄い・・・ (^_^;;;)
それで今日8月2日のEl Watan報道を見ました。
ナスロは「オラン歌謡フェスティバル」そのものを乗っ取って、彼とAPICOの「ライ・フェスティバル」にしてしまおうと考えたのですね。 (^_^;)
彼は7月31日の会見で、二つのフェスティバルを折衷した名前、Journees de la chanson rai et la chanson folklorique (ライ歌謡と民俗歌謡週間)というのを提案しています。
政府も、オラン歌謡フェスティバル、などとぶちあげたものの、例によって官僚主導では組織が進まず、モタモタしていたところをナスロにつけいられたのでしょう。おそらくたいした出演者は集められていないはずです。
さて、現地時間の2日22時に始まるのは文化省主催のオラン歌謡フェスティバルなのか、それともナスロ主導の実質的オラン・ライ・フェスティバルなのか。
どっちになって、どういう歌手が出てくるのか。
始まってみないとわからない、というところが凄い・・・ (^_^;;;)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
さあ、今年のライ・フェスティバルはどうなるんでしょう?(1)
伝統ある「ライ・フェスティバル」が今日の晩から始まるはずなのですが、今年はまったくの混乱状態で、アルジェリアの仏語紙El Watanの言葉を借りると「最後の瞬間までサスペンス」状態です。 (^_^;)
これまでの経緯をまとめておきます。
そもそもオラン・ライ・フェスティバル Festival du rai d'Oranというのは、アルジェリア内外でこのジャンルが脚光を浴び始めた80年代中ごろに、このライというわたしの熱愛するジャンル―ライ大好き!\(^o^)/―の揺籃の地オランで始められたものです。
原理主義テロが猖獗をきわめた90年代には爆弾テロを恐れて中止に追い込まれてしまうなど紆余曲折がありましたがその後復活、毎年ライのトップ歌手たちがのどを競う場所として、また新人歌手の登竜門として君臨してきました。
しかし他方その運営には、この地方の音楽業界のボス、ナスロの専横が目立つのが問題になっていました。アルジェリア政府(文化省)は、補助金も出している以上、裏でいろいろやっているらしいナスロを快くは思っていなかったでしょう。
また政府側は一方、ライというジャンル自体の野卑で秩序破壊的な性格を潜在的に危険視しつづけていて、当初からオランのライとは別系統の発展をしたシディ=ベラべスのバンド、ライナ=ライを引き立てようという姿勢がみえました(去年オランのライ・フェスティバルの委員長もつとめたハジ・ミリアニさんはライナ=ライのライは「(オランのライをウィスキーとすると)ジンジャーエールみたいなもの」と酷評しています)。
ようやく2005年からこのフェスティバルは政府主催のものとなり、ナスロは組織委員会の一員という立場になったのですが、どうもこれが彼の気に入らなかったのが今回の騒動の発端だったようです。
ナスロは去年のフェスティバル運営には参加せず、今年3月17日に組織委員会を正式に脱退しました。
そして脱退する際に、今年のライ・フェスティバルはAPICO(ナスロが長である組織です)が開くことを宣言したのです。
そして、先にお伝えしましたとおり政府(文化省)はとつぜん、今年のライ・フェスティバルをオランからシディ=ベラべスに移すことを宣言、運営の長にライナ=ライのリーダー、ロトフィ・アタルを指名しました。
さらに政府はオランに、ライ・フェスティバルの代わりとして「オラン歌謡フェスティバル」なるものを開く約束をしました。
信じられないのはこの3つのフェスティバル(APICOのオラン・ライ・フェスティバル、政府主導のシディ=ベラべス・ライ・フェスティバル、そしてオラン歌謡フェスティバル)は、三つとも8月2日から8日の間に開催されることになっちゃっていた、ということです。(^_^;)
さらにさらに信じられないのは、APICOのフェスティバルとオラン歌謡フェスティバルが、同じオラン市内の野外劇場(ライのカリスマ歌手、亡きハスニにちなんでTheatre de Verdure Hasni Chkrouneと名付けられてます)で開かれることになっていた、ということです。(^_^;) (^_^;)
ナスロは7月17日に会見を開きました。
彼は、会場の使用を3月中に申し込んだと主張していて、フェスティバルの開催に自信満々の様子です。
くわえてナスロは、なにをどうやったのやら、政府の「エネルギー」省と「若者とスポーツ」省の後援を取り付けていると言うのです。
それともうひとつ、「ライのスター達は、シディ=ベラべスのフェスティバルなどボイコットするだろう」とも言っていました。
(次のエントリーに続きます)
これまでの経緯をまとめておきます。
そもそもオラン・ライ・フェスティバル Festival du rai d'Oranというのは、アルジェリア内外でこのジャンルが脚光を浴び始めた80年代中ごろに、このライというわたしの熱愛するジャンル―ライ大好き!\(^o^)/―の揺籃の地オランで始められたものです。
原理主義テロが猖獗をきわめた90年代には爆弾テロを恐れて中止に追い込まれてしまうなど紆余曲折がありましたがその後復活、毎年ライのトップ歌手たちがのどを競う場所として、また新人歌手の登竜門として君臨してきました。
しかし他方その運営には、この地方の音楽業界のボス、ナスロの専横が目立つのが問題になっていました。アルジェリア政府(文化省)は、補助金も出している以上、裏でいろいろやっているらしいナスロを快くは思っていなかったでしょう。
また政府側は一方、ライというジャンル自体の野卑で秩序破壊的な性格を潜在的に危険視しつづけていて、当初からオランのライとは別系統の発展をしたシディ=ベラべスのバンド、ライナ=ライを引き立てようという姿勢がみえました(去年オランのライ・フェスティバルの委員長もつとめたハジ・ミリアニさんはライナ=ライのライは「(オランのライをウィスキーとすると)ジンジャーエールみたいなもの」と酷評しています)。
ようやく2005年からこのフェスティバルは政府主催のものとなり、ナスロは組織委員会の一員という立場になったのですが、どうもこれが彼の気に入らなかったのが今回の騒動の発端だったようです。
ナスロは去年のフェスティバル運営には参加せず、今年3月17日に組織委員会を正式に脱退しました。
そして脱退する際に、今年のライ・フェスティバルはAPICO(ナスロが長である組織です)が開くことを宣言したのです。
そして、先にお伝えしましたとおり政府(文化省)はとつぜん、今年のライ・フェスティバルをオランからシディ=ベラべスに移すことを宣言、運営の長にライナ=ライのリーダー、ロトフィ・アタルを指名しました。
さらに政府はオランに、ライ・フェスティバルの代わりとして「オラン歌謡フェスティバル」なるものを開く約束をしました。
信じられないのはこの3つのフェスティバル(APICOのオラン・ライ・フェスティバル、政府主導のシディ=ベラべス・ライ・フェスティバル、そしてオラン歌謡フェスティバル)は、三つとも8月2日から8日の間に開催されることになっちゃっていた、ということです。(^_^;)
さらにさらに信じられないのは、APICOのフェスティバルとオラン歌謡フェスティバルが、同じオラン市内の野外劇場(ライのカリスマ歌手、亡きハスニにちなんでTheatre de Verdure Hasni Chkrouneと名付けられてます)で開かれることになっていた、ということです。(^_^;) (^_^;)
ナスロは7月17日に会見を開きました。
彼は、会場の使用を3月中に申し込んだと主張していて、フェスティバルの開催に自信満々の様子です。
くわえてナスロは、なにをどうやったのやら、政府の「エネルギー」省と「若者とスポーツ」省の後援を取り付けていると言うのです。
それともうひとつ、「ライのスター達は、シディ=ベラべスのフェスティバルなどボイコットするだろう」とも言っていました。
(次のエントリーに続きます)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )